しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻、明治時代その2 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

奇兵隊士(明治二年)

戊辰戦争から凱旋した奇兵隊士が、下関の裏町で撮影したもの。長州藩兵士の服装は、慶応三年(一八六七)から洋装に切り替えられた。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


白石正一郎旧邸浜門(明治年代) 

現在の竹崎町、中国電力下関営業所あたり、幕末、高杉晋作によって奇兵隊がこの邸内で結成されている。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


日和山から旧下関駅を望む(明治末年ころ) 

左に旧下関駅、右に機関車庫、上方に巌流島が見える。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


西細江町海岸(明治末年ころ) 

明治三十四年に山陽鉄道が開通し馬関駅(のちに下関駅)が開業すると駅周辺は市内随一の賑わいをみせるようになり、海岸通りは"山陽の浜"と呼ばれた。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


ドイツ領事館(明治四十一年ころ)

城山(現市役所の地)に、明治四十一年八月から、同四十三年七月まで開設されていた。明治から昭和にかけて下関には、英国·ドイツなど,九カ国が領事館を開設していた。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


唐戸町付近(明治二十年代)

唐戸湾の埋め立ては、 明治二十七年から行われ、同二十九年に完成。写真は埋め立て前の風景で、右上方は亀山八幡宮、左上方の大屋根は引接寺。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


高杉晋作墓(明治三十年代)

東行は高杉晋作の号。東行の愛人おうのは仏門に入り、東行庵の初代庵主となり、生涯墓守りとして仕えた。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


東行庵(明治三十年代) 

明治十七年に、毛利元昭や山県有朋、伊蓐文など知名士の寄付で、高杉晋作の霊位礼拝堂として建立。写真の人は、初代庵主の谷梅処尼であろうか。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


今浦町付近(明治末年ころ)

上方の入江は伊崎町。煙をはきながら汽車が走り、その上方に円通寺が見える。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


巌流島(明治末年ころ)

当時は松がうっそうと繁っていた。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


下関救難所竹ノ子島見張所(明治末年ころ) 

関門海峡の西入口に位置するところから救難のための見張所が置かれていた。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


結婚記念(明治三十年代) 

神社での挙式後であろうか。洋装·和装·軍服などもあって、風俗的におもしろい。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


桜山招魂社(明治四十年代)

中央の小高い木立の中に社殿があり、高杉晋作の発議で慶応元年(一八六五)に創建した全国で最初の招魂社。のち桜山護国神社と改称、昭和11から桜山神社。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


要塞砲大隊将校集会所(明治末年ころ)

要塞砲大隊が置かれたのは、明治二十三年のことで、現在の下関理容美容専修学校の地にあった。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


火の山砲台で(明治末年ころ)

明治二十四年に完成した戦場ヶ原・椋野砲台に続き、金比羅・火の山・老ノ山・霊鷲山に砲台が築造された。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


下関要塞司令部(明治末年ころ)

西日本の国防の拠点として、九州の諸重要地点を掌握した。現在の下関税務署の地にあった。

しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)

注: 現在の昭和病院(前の国立病院)の東隣


大畠練兵場(明治末年ころ) 

現在の市営陸上競技場、体育館などの場所にあった。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


西尾医院(明治末年ころ)

明治四十年創立。院長酉尾弥三郎は、俳句の号を其桃と称し、全国に門人があり、現在なお結社が続いている。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


下関報国協会授産場(明治末年ころ) 

報国協会は、出征軍人の遺族のうち、生活困窮者を救護する目的で、紙袋の製造や裁縫、洗濯などの内職を斡旋した。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


防長孤児院(明治末年ころ)

明治三十三年、長府覚苑寺内に、軍人家族の遺児を保護する目的で、住職進藤端堂が設けた。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


厳島神社(明治末年ころ)

上新地町にあり、平家一門の守護神安芸の厳島神社の分霊を祭ったという。太鼓堂には幕末の小倉戦争で小倉城から持ち帰った大太鼓が奉納されている。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


稲荷神社(明治末年ころ) 

大同四年(八〇九)の創建と伝えられ、赤間関最古の神社といわれる。花街として栄えた稲荷町の賑わいとともに、商売繁盛の神として崇敬された。昭和二十年の戦災で焼失ののち再建。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


国分寺(明治末年ころ)

天平13年聖武天皇の勅願により国ごとに建立された国分寺。明治23年に長府から現在地南部町に移転。昭和20年の戦災で焼失したが、重要文化財の「十二天曼荼羅図・不動明王像」は奈良に疎開していて戦災を免れた。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


光明寺(明治末年ころ)

大永年間(一五二一から一五二七)に豊浦郡西市に創建、のち内日、幡生を経て享保十七年(一七三二) に現在地の細江町に移転。幕末に久坂玄瑞らの有志党が本拠とし、光明寺党とよばれた。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


引接寺(明治末年ころ)

現在地には慶長三年(一五九八)に門司から移ってきた。明治二十八年の日清講和会議のとき、清国全権大使李鴻章の宿泊所となった。昭和二十年の戦災で三門を残し焼失。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


梅ノ坊(明治末年ころ)

赤間神宮の末院で同社の北東に位置し、明治二十八年三月、日清講和会議のとき、全権大使伊藤博文の宿泊所となった。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


永福寺観音堂(明治末年ころ) 

臨済宗の道場として大内氏の庇護を受けた。室町時代初期の建立と伝えられる旧国宝観音堂は、昭和二十年の戦災で焼失。每年七月十七日、当寺に伝わる幽霊の掛軸を開帳する「幽霊まつり」がある。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


小月神社(明治末年ころ) 

明治四十二年、小月八幡宮(上ノ宮)と若宮八幡宮(下ノ宮)を合祀し、現在の小月神社となった。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


内日貯水池築造(明治三十年代) 

下関市は上水道の水源池を内日村に求め、貯水池の築造工事に着手。明治三十九年に給水を開始。
全国で九番目のことであった。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


亀山八幡宮と海月(明治末年ころ) 

亀山八幡宮下にあった料亭「海月」。海峡のながめがよく、夏は納涼に適していたという。前の海面は現在埋め立てられているが、石段下は子供たちの遊び場となっていた。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


内日貯水池築造(昭和初期)

上水道の水源確保のため第二貯水池の築造が行われた。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


日和山浄水場あたり(昭和初期) 

上水道の浄水場は、高尾浄水場に続いて日和山浄場が、昭和四年に完成。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


丸尾演習砲台(大正九年) 

明治末期から大正時代にかけて、28センチ榴弾砲が、海岸砲として多く配備された。場所は現在の本町1丁目。

(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)

(彦島のけしきより)