たぺものやたべある記、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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たべものやたべある記

大きな家の建つのは大抵銀行で、沢山家の建つのは大抵たべものやである。銀行はとも角としてもこれだけたべものやが出来て一体立ちゆくのかと、自分の商売は棚に上げて一寸考えさせられる。

然し、たべものやといえば仲々昔なつかしいものである。私は今から舌をなめずりながら大正を中心にして、この下関のかつてのたべものやをかけ足で一まわりしてみることとしよう。


河豚料理屋

下関のたべものやといえば先ず何といっても河豚料理屋を筆頭にあげなければなるまい。河豚を食わせる店としては古いところでは 阿彌陀寺町の春帆楼、月波楼、大吉楼、風月楼、福辰、前竹、茶勘、常六、常富。赤間町の鎮海楼、西ノ端町の天真楼。

小門の梅林亭など明治の中期ごろからさかんに行われ、また稲荷町裏町の遊廓街においても、大阪屋、幕内、藤米、大黒楼、長保楼、対帆楼などの貸席、酒楼でももちろん河豚料理を出し、中央の知名士はじめ顕官の出入も激しく、それにまつわる逸話もまた数限りなく残されている。

しかしながら河豚料理の中心は何といってる阿彌陀寺町で、春帆楼を除いては大部分が魚屋から転向したもので、特に福辰の料理の妙は当時(明治二十年前後)人気の焦点ではあった。

その後においてもそれらの料理屋に加えて(もちろん大正期にはいってからは如上の店の大半は閉鎖したが)旧壇ノ浦の魚百合、壇ノ浦の吉永、阿彌陀寺町の岡崎、幸亭、月見や、銀水、山口、今福、赤間町の魚さん、唐戸町の魚とら、岬之町の大成館、小松、神宮司町の海月、外浜町の新三浦、西細江町の藤友、一寸亭(後の富のや)、仲之町の志ら滝、 日和山のますだや(後阿彌陀寺町に移る)、豊前田町の魚徳、今浦町の魚久、長府の古串屋など、専門の河豚料理屋が市内至るところに出来て、地元はもちろんのこと、関門を通過するあらゆる酔人に河豚の味覚を拡め、その名声を全国的なものとした。

けれど同じ今は下関だが長府の河豚料理は非常に遅れた。阿彌陀寺町に佐野勝という河豚料理のうまい男がいたが、これの妻が長府から来ていた関係上、明治四十二、三年ごろ佐野勝が長府で河豚をつくったのがはじめてだといってもいい。

戦災後の河豚料理屋はむしろ皆様のほうがおくわしいことだろうからはぶく。


すしや

下関のすしやは場所柄もともと大阪ずしのさかんな所であったが、東京風のにぎりが愛好され始めたのは大正期になってからである。

明治期には長府金屋の山野屋、豊前田町のすし源、稲荷町のすしとら、教法寺前のすし辰などが有名で、大正期から昭和期にかけては、今浦町のすし常、奥小路町のすしつね、城の越のじゃの目、東南部町の成金。

それから少し年代が下って、裏町の京安、扇町のすし正(一名大正ずし)、宮田町の東ずし、西之端町の文福、一平、豊前田町のきみや、長府土居ノ内の大阪ずしに福助ずしと、各所にそののれんを競うようになった。おのおのみなその特徴を持つていたが、中でも戦前のものとしては文福の味は最るすぐれ、すし正の「いなり」東ずしの「ばら」一平の「おどり」などは特に忘れられない魅力の一つ一つであった。

長府山野屋のすしは一名「みやこずし」ともいい、長府最古のまた唯一のすしやともいえた。山野品吉がその主人で、彼は店頭で握ったが、また毎日すし箱を担いで街頭にも出た。「のりの巻ずし、都すし、にしんのこぶ巻、こだいのはなすし、まけちょく、添へちょく、なじみにやただやる……」と、これが山野屋の名科白で、当時街の人気を一人に集めた。明治十年ごろに開業し、老齢まで続けたが、昭和のかかりに遂に死亡した。


天婦羅屋

本格的な天婦羅屋は古くからは下関にはなかった。あっても小店で、タネもゴボウ、芋、するめ程度のもので不味くもあったし、また一般に飛びつかなかった。大分時代が新しくなって一番人気のあったのは、西之端町の陣屋でここの主人は森川庄之助。もともと大阪の人らしく、餅屋から転向して東京で天婦羅を覚え、昭和のかかりに初めて下関で開業したもの。特に「かにてん」と「天どん」は独特なもので「河豚の天婦羅」よく食った。

その後同じ町内に大阪から職人を呼んで「天とら」(主人伊藤虎之助)が出来たが、主人夫妻が、浄瑠璃の師匠だけに座敷に文楽の人形が飾ってあったので今もって印象的に残っている。

西の方で魚徳か天婦羅屋を開いたのはそれからズットのちのことであった。


そばや

そばやでは西細江町を本店に、新地、入江、唐戸に支店を持った東京庵が一番大きく(然し、もともとは唐戸が本家であったが)西之端町の末広、阿彌陀寺町の赤れん、東南部町の三好庵、大社そば、裏町のやぶそばなどが有名。それらは大体大正期を中心にして繁盛した。

明治期にもこうして麵類を売る家もあったが、格別名だたる店はなかった。


焼鳥屋

海門の黒猫、下って西之端町の大平などがあるにはあったが、年代も新しく(黒猫が大正期の初め)土地柄いい種もなく、またその好み手も比較的少なかった。


川魚料理屋

これは焼鳥屋よりも未ださびしかった。私の知っている店としてはただ岬之町の新高ぐらいのもので、下関が川魚に恵まれていない関係、これも致し方ないとこであろう。

然し、川魚の専門店ではないが、今から約五十五、六年前、稲荷町の伊予源というかしわやで鯉の料理が非常に有名であったことからみても、明治期でもまんざら川魚料理をたべなかったわけでもあるまい。


すき焼屋

すき焼屋で最名古く、最も有名であったのは西南部町の「若戎」である。主人は若戎新太郎で、明治二十五、六年ごろ三階建の一階を紙商にあてその二、三階をすき焼屋にあてた。非常に繁盛して相当遠方から客が来た。たしか明治二十九年だという。

ここのすき焼の野菜に始めて玉葱が出た。客人はこれが何であるかを知らず非常に珍重がってたべたというところをみると下関の者は大体このごろから玉葱を見、味を知ったのかもわからない。

若戎は次代若戎秀蔵の時、このすき焼を閉じ、紙商専業となったが、これに続いて唐戸町中通りに「大和」というすき焼が出来た。この店は永く続かずすぐうなぎやに変った。


うなぎや

裏町教法寺前に維新前から「福山」という貸席酒楼があった。山田市松の経営で「むしずし」「茶碗むし」等非常に評判がよかったが、うなぎ料理は当時ここの右に出るものはなかった。

また唐戸町中通りの「手合亭」(前述大和のあとである)も明治三十七、八年ごろ出来た。

長府では古江小路角に「池月」という「かばやきや」があり、その主人は松林某といい、大阪まる万の身内である関係から、そこで料理をおぼえ帰郷して「池月」を出したのである。それが明治三十一、二年ごろというから福山より遅いが手合亭よりも早く名乗りをあげたわけである。福山は戦災まであったが、手合亭も池月もしばらくして店を閉じた。


かきや

広島から大阪に「かき」を売り込む船をそのまま岸につないで売っていたのが、やがてその船で料理するようになり、それがいつしか全国に普及したのがこの「かき船」である。

下関では蛤小路を唐戸の浜に出たところに明治十八、九年ごろ「かき舟」があった。これが「かき舟」の下関での最初のものだといわれているが、それよりかなり年数が下って明治三十七、八年ごろ西細江町の岬之町よりの海にかき舟が出来たのが下関西部の最初である。

もちろん広島の人の経営で「かき」も本場からひき、シーズン(大体十二月から三月まで)だけ開いてあとは閉鎖した。

豊前田浜や新地浜の「かき舟」はそれからのちに出来たもので、戦前各所に見られた岡の上にあがった「かき舟」は、すべて大正期にはいってからの産物である。


かしわや

かしわ料理といえば博多が本場で、下関の人気は自然うすれて行くのであるが、それでも稲荷町の入口(戦災前の赤間映劇跡)にあった伊予源は有名であった。主人は平智又兵衛といい、伊予の生れでもともとお抱えの力士、四境戦争の時、磐石隊(一名力士隊)の一員であったが、維新後遊んでもおれず店をここに開き、名も伊予源と称してかしわをはじめた。

すっぽん、うなぎ、鯉の料理もつくった。それが明治の極極初年のことで、上方よりわざわざ職人を呼びよせ、にわとりは市内高尾、園田方面から仕入れ、すっぽん、うなぎなどは今のガス会社の前に池洲をつくり、それに生かしておいた。客人は非常に多く、特に遊里の近くだけになかなかの繁盛をつづけた。

しかしその伊予源も明治末年遂に店を閉じた。伊予源につづいて古いかしわやは神宮司町の鳥源と裏町の鳥初であった。両者は互に身内の者で、もともと伊予源ににわとりを納めていたのであるが、伊予源の経営がようやく面白くなくなったので明治四十年ごろ相前後して店を開いたのである。

この二軒は戦災まで続いたが、これとは別に新しいところでは外浜町の河豚料理屋新三浦がかしわ屋を併業したが、これは鳥源、鳥初よりも早くやめた。


会席料理屋

会席料理というものが出来るまでは、すべての料理は丼物にきまっていた。

京都の人で桶屋彌兵衛という人、常にこの界隈に呉服物を持ち下りていたが、丁度小倉戦争の時に行き当り、下関で動きがとれなくなった。彼は致し方なく下関に根をおろし、稲荷町に「滝遊」という店を開いた。庭に滝をつくり、湯にはいらせて遊ばせる仕組になっていたところから「滝遊」の名をつけたのであるか、ここで初めて遊客に出したのがこの会席料理であった。開店は明治初年で、それから明治二十四、五年ごろまで続いた。(なおその時の風呂がのちの暁湯である)

滝遊がやんでその次に来たのが日清戦争ころの「筑政」(豊前田町)である。筑政は主人は広島の出で、中野政吉といい、もともと明治二十年ごろに同じ場所で食席をしていたのであるが、貸席は食席のままとして同じ敷地内に紅葉社を取りこみ、離れ座敷をつくり、広大な庭には桜を植え、菊をつくらせて春は花、秋は菊見という趣向で遊女を呼び、会席を出して酔客を喜ばせた。然し、これも永くは続かず明治四十年近くにやんだ。

また筑政の向うを張ってか、同じ町内で岡野屋(主人岡崎吉兵衛)が同時期に海に差し出しをつくって会席を出したことがある。筑政が春秋の客をねらったのに対し、ここは夏の客をねらったわけだが、これは筑政ほど大がかりなものでもなく、筑政と相前後してやめてしまった。

「昔の跡」によると「明治二十年三月、亀山下常見屋の会席……」と載っているところからみると例の滝遊がやめ筑政が始めるまでに名滝遊に刺激されて常見屋その他が市内のそこここに会席料理を始めていたかもわからない。

いずれにしても、こうしたことから自然下関のあらゆる酒楼料亭は会席の流行となり今日に至ったのであるが、それにしても滝遊の主人がいち早く京都の会席料理にねらいをつけたことは、たしかに先見の明があったといえよう。


西洋料理屋

明治二十五年に出た「馬関土産」によると、春帆楼や大吉俊、鎮海楼や天真倭はその時すでに和食と合せて洋食も客人に出していた、と載っているが、少なくとも西洋料理を一枚看板として営業したのは唐戸中通の長養亭であろう。

ここの主人は長尾といい、もともと洋人のコックをして来た男で、その妻は魚屋である。これがはじめて明治三十年ごろ洋食専門屋を開いたわけで、当時のことだけに珍談は百出の有様であった。定食には上中下の三通りあり、下の部でスープ、ビフテキ、シチュー、パン、紅茶がついて五十銭であつた。

神宮司町の音楽、西之端町の西洋軒が古かったが、長養亭よりも遅れて出来た。その他明治末年から大正の初めにかけては、西之端町の有楽軒、西細江町(のち岬之町に移った)の山陽亭(明治三十八、九年ごろ)、岬之町の吾妻亭、唐戸町の宝亭など出来たが、特に有楽軒の定食や宝亭のテキはうまかった。これら四軒は戦前までつついたが、戦後パッタリ姿を消してしまった。

さてここで明治三十六年に出来た山陽ホテルの洋食について語らなければならないが、あまりに長くもなるし、それに大方の人は既に御存知のことと思うので次にすすむこととしよう。


十銭洋食

洋食が段々普及されはじめてから、これを最も安くして大衆を集めようとして出来たのが十銭洋食である。この十銭洋食を一番最初につくったのが「浪花軒」で、場所は岬之町、今の三和銀行あたりの石屋のあったうちである。

「浪花軒」の主人三木某は、その石屋を夜だけ借りて、そこで簡単な洋食屋を始めた。明治四十一年のことで、何分家は野天井だったので雨天の日は休業した。主にテキとオムレツを自慢としていたが、求めに応じて一通りのものもつくった。何をたべても十銭というのが非常な人気となり、「浪花軒」はわずかの間で家を観音崎に新築し、本格的な「十銭洋食」を開業した。然し家庭的ないろいろの事情のため、大正七年遂に店を閉じなければならなかったことは、一般にいたくおしまれた。

何分場所柄客人は問屋筋が多く、それも中番頭以上に限られていた。当時小僧達は二銭のうどんをたべるのがせい一杯だったので、彼等はこの十錢洋食のたべられる中番頭に如何に羨望を感じたことであろうか。

かくして十銭洋食は浪花軒を契機として市内各所に出来たが、自然的物価高により十銭が十五銭になり、十五銭が二十銭になって、十錢洋食当時の魅力と本質が失せて行ったために自然にそのなごりさえ失せてしまった。


ぜんざいや

ぜんざいやはそばややうどんやと共に、相当古くから街のそこここにあったには違いないが、少なくとも明治期をとおしてここぞという名物の店はなかったようである。ただ西之端町の「大亀」というぜんざいやは有名で、例の名妓須磨子が明治七年ここで、生れたことはとの書頭に述べたことである。

海門の黒猫、赤間町の桃園、岬之町の花園、それに豊前田町の河崎屋などが私達の子供心にわずかに残っている印象であるが、それは大抵大正期が中心で、それも、わざわざ旅人の足を止めるほどのものでもなかった。

然し、ただ一こと書き加えたいことは長府土居ノ内の平野屋の「一銭せんざい」である。はじめたのは明治三十年ごろで、やめたのは大正期にはいって二、三年たってからであるが、ここの「一銭ぜんざい」は長府きっての一つの名物であった。


アイスキャンデー屋

大正六年の夏、豊前田町の河崎屋(前述のぜんざいや)がはじめたのが機械をすえてのアイスキャンデー製造の最初である。新地町の久保商店、田中町(後唐戸町に移る)の山根商店の両者は、河崎屋にならってその翌年開業し、その後は年々雨後の筍の如く激増して今日に至っている。

アイスキャンデーの出始めたころは、アイスケーキと呼んでいた。当時私の父の友人である医者に「世の中はアイスケーキと不景気で、青くなったり赤くなったり」と書いてもらったことを子供心に覚えているが、当時の世相がおもいお起されて面白い。


茶店屋

茶店屋もいろいろあったが、やはり正宝亭が一番有名であった。亀山宮境内に今は焼けたが、伝説で名高いお亀いちようの木のそばに明治二十七、八年ごろ正宝亭という茶店屋があった。奥は料理屋で、表は茶店になっており、特に参拝人のしばしの憩い場としてその茶店は非常に地の利を得ていた。

然し、この茶店が繁盛した理由は、決してその地の利だけではなく、ここでお茶と一緒に出してくれる「まんじゅう」であった。この「まんじゅう」は、餡はとろくすんの白餡、外側は卵を相当用いた黄色をおびたもので、味はまことに無類であった。

といって、この「まんじゅう」は決して正宝亭でつくったのではなく、仲之町のとらやである。然し、一般はとらやは知らず「正宝亭のまんじゅう」として、わざわさでもここに足を運んだものである。

ヒヤホールの始まりは明治四十三年、豊永国蔵が西細江町、今の旧駅前に経営した話だとか「カフェー」とはじめて名のついたのは「カフェー蝶蝶」で、これが大正九年であったとか、喫茶店の草分けが、大正十三年西之端の「サントス」であったとか、喫茶店の前身とでもいうべき「ミルクホール」がはじめて下関では東南部城の越に出来たとか…

この方面の話書けぼ興味深いものがあるが、私はいささか今は食滞気味になったので、この辺で筆をとめる。

(佐藤 治)

(馬関覚え帳 朝日新聞下関支局編)


春帆楼

(古写真集「関門浪漫」より)

(彦島のけしきより)