新地町の歴史、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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新地町4

永代橋は思案橋という人があって、金子文哺はその日常には皆これを使用している。この永代橋を西へ渡って約半丁、元の技歴の附近に醤油屋文左衛門即ち滋文があった。主人文左衛門はこれまた国学に精通し和歌をよくし蔵書も多かったが、挙げて厳島神社へ寄進した。歌道の名を有島管道といった。伊藤常足、鈴木重胤の門下である。

遊女屋を業としている処から志士潜席には屈強であるので、平野二郎、有馬新七、その他の志士が厄介になっていた。なお文左衛門は筥崎八幡宮の敵国降伏の額面を拓本して有志に頌ったこともある。

豊前部崎の燈台が無い時分に僧清霊というのが、自力で海岸で火をたいて航路標示をして航海に便じた謙虚で犠牲的な行為に対しこの大黄屋が月に幾俵かの米を貢いで清霊を援けた。 この清霊の事業は我航海史上特筆すべき行為として既に顕類されているが、この大黄屋の如き無名の貢献者これからもらしてはならん。

なおまた大黄屋以前の天保八年ごろには西新地に三富士屋金兵衛という目明しで元は大阪角力であった男がいた。彼もまたこの清霊を応援したことがある。それから大黄屋の前には大塚柳斎という萩から来た医者がいて、これがまたこの事業の応援をした。この柳斎は自力で多くの町兵志願者を養い、一時は四、五十名いて攘夷戦には城ノ浦砲台の土工に従事し、鬼将軍来島又兵衛から激賞された。

然るにとの一党に与える食事の給与に事欠いたので、同志の中の二、三人が岡の原附近の農家から牛を盗んで屠殺して食ったので問題になり、果ては自分戸嶋屋とか名総人になって会所で公認の屠牛場を創めた。長州藩では最初の牛肉屋である。

(馬関覚え帳 朝日新聞下関支局編)

(彦島のけしきより)


参考

下関市新地町

下関市新地西町