① 山陽浜の艶歌師
細江の山陽の浜は馬関の駅が出来た明治三十四年に埋立てられた新開地で、ホテルができ、宿屋ができ、土産物屋ができ、飲み屋ができ、そのうえ関釜連絡船が通じてからは年と共に繁華街となって馬関唯一の中心地となった。
しかし、海沿いには家がなく、昼間は浜の船だまりに集る和船からの荷の揚げ下しで一日中雑踏するが、日が落ちると夜店がズラリとならび、旅の人、街の人で深夜までごった返した。
私の小学校のころの夜の遊び場はこの山陽の浜であった。とくに、駅前の広場で、毎日のようにえん歌師が当世流行の歌をうたったが、それをききにいくのが一番楽しみであった。
大学の帽子をかむり紋付はかまに太い緒のゲタを素足によっかけてバィオリンを弾く書生風の男。そのそばで相当年をとっている女がいかにも小娘らしくお下げなどして男につれて歌をうたい、歌の合い間合い間には客のうしろにまわって歌本を売った。この女のことを「イモ子」さんといった。
私はいつも幾重にも取り巻いている大人の下をもぐり抜けて一番前に出てきいた。「のんき節」「カチューシャ」「枯すすき」「朝の散歩」「流浪の旅」「徳山心中」そんな歌が流行を追って次々に繰返されたが、中でも「徳山心中」の「ここに周防徳山の 高等女学校に通われる才色兼備の艶で人はその名も吉井信子とて年は二八か二九たらであまた生徒のいる中に 一きわ目に立つ八重桜色香も深き紅梅の雨にうたれしバラの花…」 や「朝の散歩」の
一、朝の散歩にいつも会う女
右の頬ベタのホグロがかあい
ほぐろよくよく横目で見れば
今朝は左の頬にある
一、朝の散歩にいつも会う女
誰に貰たか指輪がにくい
指輪よくよく横目で見れば
今朝は不思議に指に無い。
など、どの歌一つ思いおこしてもたしかに淡い郷愁をさそう。
② 山陽の浜のスリ
山陽の浜の夜店には種々雑多な商い屋が出た。えん歌師はもちろん、バナナのたたき、ガマの油、うどんや、古本屋、菓子ツリ、易者、手品の種売り…特に、夏になると、それに、冷しアメ、アイスクリーム屋、氷屋、金魚屋などが所狭いまでに立ちならび、どこの店も客人で身動きが出来なかった。
盛り場にはスリがつきものだった。山陽の浜はそのスリの巣くつであった。私がこの浜ではじめてこれを見たのは えん歌師の群衆の中だった。その時には、一人の男が懐中を取ると、五、六人先にいる次の男にそれを投げ、その男がまた少し離れた所に待機している第三の男にそれを投げる。第三の男はそれを取るなり一目散に何処かへ逃げていった。
その間ホンのわずかな時間のリレーであった。取られた男が感づいて第一の男をしきりに責めていたが、第一の男は俺がスリとは横着な、どこに持っておるか調べてみい。…と怒鳴りながらみんなの前ではだかになって開き直った。その騒ぎでバイオリンはやみ、群衆はみんなスリのまわりを取り巻いたが、現物が見つからぬので問題にならず、盗んだ男はゆうゆうとその場を引揚げた。
そのスリに私も一度ひっかかった。学校の本を買いに西南部の本屋に行く途中、山陽の浜の「十銭ストアー」を見ている時、ウッカリ懐中ごと本代をスラれた。その直ぐあと気がついたが、その時にはもうそれらしい人影も見当らなかった。
それから四、五日もたったころだったろう。私の友達が家に来て「おい、面白いものみつけたけえ来てみい」というのでツイあとをついて行ってみると、それは光明寺の広場にある便所であった。何かしらと中をのぞいて見ると、そこには十五、六個くらい、いろいろの懐中が捨ててあった。ハッとした私はよくよく臭いのを我慢して目でより分けてみると、そこにまぎれもなく私の盗られた懐中があった。
③ 香具師と「たたき」
香具師のことを私達は「ヤシ」といった。「ヤシ」は「矢師」ともまた「野士」とも書き「テキヤ」ともいった。
この「ヤシ」は源頼朝の時から始ったと伝えられ、もともとは隠密をつとめながら薬を主としていろいろの品物を売ったらしい。それもまず、居合抜きやコマ回しなどの遊芸を見せて人を集め、そこではじめてその本職の薬などを出したそうだ。現在もこの「ヤシ」を業とする人は全国でかなりの人数に上るが、これは次第に都会地から奥地の縁日に追いやられていくかたちにある。
私達がかつてこの「ヤシ」を一番面白く見たのは、これも矢張り山陽の浜で「がまの油」はもちろん「おっとせい」「八目のうなぎ」などいろいろあった。香具師特有の名科白をつかい、刀で手を切つてみせたり、針で手の甲をつき刺してみたり、また、ヘビを飲んだりして客をセイ一杯寄せ、最後にはお定まりの薬などを売った。
本業が出はじめると、一人逃げ二人逃げするが、その足を一人でも多く止めさせるために「サクラ」という客の替玉がわざとその品をほめちぎって買う。それにつられて、ツイうかうかと何人かの人がひっかかる。
「たたき」も浜の名物であった。その中でもバナナのたたきが一番威勢がよかった。バナナが下関の街に出始めたのは大体私が生れるちょっと前の明治四十年ごろのことで、そのころは台湾帰りの船乗りが小遣いかせぎにこっそりバナナをカメに入れて持ち帰ったのだが、大正に入ってからは、正式に業者の手で移入されるようになった。
バナナ売りは明治の末年まではおもに野菜売りがそのついでに商った程度だったが、これがハッキリ下関の名産化されてからは、市内の土産物店の店先に山ほどつまれ、旅人の足を止めるようになった。それら主として唐戸の市場付近や駅前に多く、夜は夜で、露店の一角でバナナのたたきが盛んになつた。
台のついた戸板の上にうず高くバナナを積み、勇みハダのアンチャンが、はち巻ハッピ姿でムチ(これは竹ででき「バサ棒」といった)をたたきたたき、これでもか、これでもかーとしつこく押しつけて売った。いいバナナで百匁八銭、悪いので三銭から四銭…といったところがそのころの店屋での相場だったが、このたたきを見ているといかにもその相場より安かった。安かったのではなく安くみえたのであろう。
ともあれ、「がまの油」にしてもこの「バナナのたたき」にしても、今まで一度も買いたいと思ったことのない私ではあったが、あのハラハラする芸当を見、あの立板に水の口上を聞くだけで十分に楽しめた。
④ 街頭蓄音器
ゲテモノの蒐集で有名な黒井の重本さんがこの間市内のある家で蝋管蓄音器を手に入れた。器械は完全だし箱は無疵でこれは本当に良い収獲だと思った。
それにして、蝋管といえば明治四十年の一月、乃木さんが長府に帰られた時に吹き込んだ蠟管が今豊浦小学校に保管されているというが、私はまだ聴いていない。
蝋管蓄音器が日本にはじめてはいったのが明治二十九年のことで、これが縁日などに出て一般大衆の前にお目見得したのが明治三十年ごろのことである。この蝋管蓄音器も山陽の浜に現われた。
二尺立方くらいの箱を台の上に乗せ、その箱の横っ腹からタコの足のようにゴム管がぶら下っていた。一銭払ってそのゴム管を耳の穴にはさむと、中からガーガーという雑音に混って人の話声や歌声などが声えてきた。その話が誰の何の話でもいい、その歌が誰の何の歌でもいい、ただ、アメリカから渡って来たこの不思議な蓄音器というものの音が耳にはいるだけで、胸をドキつかせた。
この蓄音器の吹込料は蠟管一本で一円から二円程度だったといわれるが、歌は主としてどこかの芸妓の端唄が多かった。私達は一銭払ってそれを二本聞かれるわけだが、あと引続いて一銭出して聞こうものなら、うしろに待っている人からさんざん叱られた。
蓄音器も螺管から進歩して明治三十五年にはもう、日本物が平円盤としてアメリカでつくられ、翌年大阪の勧業博覧会にこれが出品されてからは、蠟管は中央からバタバタその姿を消した。とくに明治四十一年には内地製の円盤が出来だしたので、蝋管の生命は僅かな年月に過ぎなかったが、それでもこの山陽の浜ではしばらくこの蓄音器が続き、下関から町へ村への縁日に流れて可成りの寿命をもった。
(馬関少々昔咄 亀山八幡宮社務所)(彦島のけしきより)
参考
① 山陽の浜と船溜まり(参考)
大正8年の旧下関駅あたり、豊前田町から西細江町
② 山陽百貨店(参考)