四王司城趾、下関市松小田 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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四王司城趾1

四王司山は、海抜三九二メートル、このあたり第一の高山である。山頂の眺望もすばらしく、春夏秋冬、秋引く人もはなはだ多い。

ここには毘沙門天がまつられて、開運の祠として名高い。正月初の寅の日を御開帳として近郊の人はもちろん遠く北九州方面からも登山参拝するものも多く、その数数万といわれ、さほど広くない山頂も、ために立錐の余地もないほどのにぎわいである。

四王司山毘沙門天安置について、長府史料は「三代実録」清和天皇貞観九年(八六七年)五月二十六日の条に、八幅四天王像を五体造り、各一体を伯耆、出雲、石見、隠岐。長門などに下し、各国司に各国は西の極界であり、新羅に近いから警備は自ら他国と異り、厳にしなければならない。よろしく尊像に帰命し、勤誠修法して賊心を調伏し、災難を避けよ。仍って須らく地勢高く、賊境を見渡す地に道場を造り、仁祠を建立して尊像を安置し、国分寺から練行精進の僧を四人を選抜して大いに最勝王経四天護国品に依り祈薦を行いしかも春秋二季、一と七日あて清浄堅固に薫修せよ。あって、その意義を述べている。

すなわち、長門国司も詔によってここに地を選んで四王院を建立し、山名はもと「宝鏡山」といったものを、ことのこといらい「四王司山」ということになった。

四王院はその後いろいろと変遷があり、史上ではすべて井田荘医王山東福寺に四天王像そのものも遷したということによって、最後となっている。東福寺では、毎年初寅の日尊像を四王司山頂に安置して、参詣に来るものに礼拝を許したといい、いまのように常時四王司山頂に御堂を営み、安置するようになったのは、明治維新以後のことと伝えられている。

四王司山頂は正平のむかし、南北二朝にわかれて戦乱絶え間のなかったころ、長門国守護職厚東武村が城砦を営み居城の地とし、その悲壮な末路の物語を伝えている。いまこれを古史に拾って詳細に伝えよう。

厚東氏は、はじめ物部氏を称し、物部守屋の遠孫武基、長門国厚狭郡の東部地方に住み厚東氏を称し、その地方を本拠として勢力を伸ばし、威を四方に振ったのである。武基の玄孫武晴の子武光、城を厚狭郡棚井に築いて拠り、大いに武威を示し、さらに、子孫代々この城(棚井霜降山城)に拠って覇を厚東地方に振い、六代の孫武実にいたった。武実は、はじめ太郎といい後に太郎左衛門を名乗り、後また剃髪して太郎入道崇西といった。元弘三年(一三三三年)にわかに南朝方に参じて長門探題北条上総介時直を追うて長府に入った。

後に、その功によって建武の中興成るとき、特に長門国守護職を賜った。しかるに、彼はその翌年には足利尊氏に従い、尊氏京都に利なく、西海に落ちて来るや、建言して長門国に一族尾張高経を大将として留めることに成功し武実自らその守護となって、尊氏東上の有力な足場となった。かくて、延元元年(一三三六年)の四月、尊氏東上に備えて多くの乗船を準備し、周防の大内氏、安芸の熊谷氏らの豪族を誘って幕下に従って上洛したのである。

すなわち、このとき武実の調達した兵船は、多く串崎の漁船であって、武実ははやくから彼らの間に気脈を通じていたもので、彼らを誘って尊氏のために加勢をさせた。やがて足利の大軍は備後鞆の津に到着し、軍議にわかにかわって、水陸両軍となって東上することに決し、武実は一族とともに陸上軍となり、足利直義に従い山陽道を進み、兵庫山の手に戦い、のち京都に入り、足利氏帷幕の将として大いに権勢を張ったが、惜しいことに京都滞在中に発病、逝去した。

武実はそのあとを子武村に継がせた。武村は南朝方となって功を以て駿河守に任じ、建武の行賞には、豊前国企救郡を領した。父の死後その遺領を相続し、入って長門国守護職に任じられた。はじめ本拠の地を霜降山城にさだめ、一族の富永武道をして守護代に任じて長府に留め、後自らも長府に拠り、四王司山頂に城砦を営み、威を付近の諸郷に振るった。

史伝によると、足利氏に従いこのころ周防国においてすこぶる強大な勢力となっていた。大内周防介弘幸の子弘世は、はやくから長門制覇の野望に燃え、しばしば兵を出して武村にせまった。

正平六年(1三五一年)六月五日、大内弘世は軍勢八万騎を率いて武村に決戦をいどみ、合戦の布令を領下に伝えた。このとき、弘世の重臣陶宮内少輔弘綱はこれを知るよりすぐさま館に出頭していうには、「武村はさほどの強敵とも思えない。大守自ら出馬して討たれるまでもあるまいものを。誰か、家臣の内から心利きたるものを選んでっかわし、万一不覚のことあったる場合、そのときこそ大守自ら出でまして、軍をはげまし戦われたい」と進言した。そこで、弘世も尤もなりとこれを容れ、軍勢三万二手に分け大手の大将杉又二郎智静、これに添えて黒川、佐々木、広田、問田、朝倉、横山の諸将を先手として一万五千。またからめ手の大将を豊田左馬允鎮武、これに添えて南野、津田、石川、藤谷、大内、陶の諸将を配しその勢一万五千。命畏まって両軍は、この日早天唐菱の大旗押し立てて、四王司城一もみと、どっとばかりに攻め寄せた。

こちらは長府の厚東方、かねてこのこと風聞によって承知のこと、早くも軍勢を要所に配し、大将厚東武村は、諸将を集めていうようには、「われこの度の戦は、小勢をもって大軍にあたる、勝利のほどは覚束ない。されど、わが籠る四王司の城は、大谷小谷いよいよ深く、道羊腸として通行易からず。されば、例え十万の勢とてもあえて恐れず、よも易くはこの城渡すまじ。名にし負う大内勢を追い崩して、武名を万世に轟かせん」と、ここに自ら手兵二千騎を引きしたがえ、西の峯の本城に拠り、一族富永又三郎武信に一手を授けて南の城に陣取って、大内勢来るや遅しと待ち構えた。

そのとき、大内勢の先手陶山三左衛門高為、二千の兵でどっとばかりに山のふもとへ攻め寄せた。かくて休むいとまるあらばこそ富永勢籠る南の城へと殺到した。続いて残りの本軍る、一致結束、火の玉となって武村籠る西の案目指して、鯨波(ときの声)作ってはせ登った。厚東方ちかねて覚悟のことなれば、あえて騒がず、十分に引き寄せて、矢ぶすま作って防ぎ戦った。かくて戦いは卯の刻(午前六時)から、未の刻(午後二時)へ、およそ四刻(八時間)の間続いたが、必死の厚東勢に、さすがに猛き大内勢も散々に打ち破られ、あるいは討死、あるいは負傷、その数知れず。それと見るや厚東勢はさらに勇気も百倍して、この機のがすなと全軍打って出て、馬を左右にはせちがえ、従横無尽に切り破り、突き破る。

雲霞のような大内勢も息つくひまも与えられず、いまはかなわじとあわてふためき、小月の宿を指して算を乱して引き上げた。この日、大内勢先手の大将津田晴信、乱軍の中に討死し、むなしく尻を四王司山中に捨て去った。「大内勢三万、この一戦に破れしは、今日の備えに一致を欠きしことあり」と、その夜はそのまま互いに戒しめあつて遂に討って出るものもなかった。

あくれば六月六日の朝。「きようこそかならず四王司の城を抜けよ」とて襲いかかった大内勢、猛攻実に再三度。しかし、きようも厚東勢の守りは堅く、その塁盤石のごとく、小勢よく一致結束、これを支えてよく防ぎ、寄せ手の勢を一歩も城へ近寄せない。

勢い込んだ大内勢も、ただ、いたずらに歯ぎしりするのみでここかしこの谷々は、伏屍塁々惨鼻を極めた敗軍に、やむなく遠く近くの山ろくに、兵をひそませむなしい遠巻き。四王司の城はいつ陥るとも見えなかった。かくて半年、敗報しきりに山口の大内館に入る。この様子にいらだったのは陶宮内少輔弘綱であった。

味方の相次ぐ体たらくに、「かくては大内武士の恥ぞよ」と、自ら願って援軍となり、その年十二月に入るや、手勢二万五千をに引っさげて、霜凍る山陽道をひた押しに、長府を指してはせ下った。「かかる小城を攻め落すに、何ほどの月日がいるぞ。かかる上は諸公の軍は退いて、わが戦いのさまを見ておられい。我ただ一戦に攻め落し、大将武村の首に見参せん」と諸将を会して申し与えた。

千軍万馬のつわもので、大内家の重臣と人も我も許した大将弘綱。きびしく言いわたす威厳の前に、あらがう術もなく諸将は縮み上がって顔を上げて答えるものもなかった。十二月七日の巳の刻(午前十時)家臣安岡筑前守崇能、大嶺右衛門尉弘種を先手とし、四王司城への道、薬師堂から攻め上ぼった。城方の虚をついてたちまち一塁を乗り取り、はやその次へと迫って行った。

かねて大内勢の手ぬるい戦いぶりにいささか心おどって、守備にも手ぬかりがあったのか、にわかに押し寄せて来た新手の勢に、はや周章ろうばい、そのなすところを知らないで、上を下への大騒ぎ。寄せ手の方ではそのさまに、ますます勢い鋭く攻立てたので、さしもの城方も攻めまくられて次第に山上へと追い上げられていまを限りと見えてきた。このとき、寄せ手の猛攻に、おじ恐れていまにもくずれんとする城方に、味方を励まし励ましして、自ら陣頭に立って防ぎ戦う侍大将、その名を秋根与市利澄とて、月毛の駒に梨地の鞍、黒皮おどしの鎧着て、大なぎなたを振り回し、むらがる寄せ手をなぎ伏せ、切り伏せ、その勢のものすごさ、面を向ける人もなかった。

「やあやあ、ふがいなき味方の殿原、敵に後を見せることやある。引返して、あれ防げや」と、大音声に呼ばり、呼ばわり、なおも勝ちほこる陶勢の真只中を縦横無尽に暴れまわった。はるかに後陣に控えてこのありさまを驚き眺めた弘綱は、「あれ打ち取って手柄にせよ。彼とてもよる鬼神ではあるまいぞ」と、ひるむ味方を励まして下知も下せば味方の将卒、あと振り向いていっせいに、矢ぶすま作って射かけてゆく。

敵も味方も何考えるいとまもない。ただ目前の敵を目掛けて討ち滅ぼせやと攻めつ、防ぎつ、四王司山中ここかしこ、いまを必死と大戦場、その時、寄せ手の一将、奈良井信濃守範景は、大将弘綱の命をうけ、城の後の細道を手勢を引き連れ一足飛びにかけ登り、前面の敵に心を奪われて備える薄い裏門から、城中目掛けて無二無三に切り込んだ。その勢わずかに二百騎ばかり。

それでなくても浮足立ったる厚東勢、不意におどり出た新たな敵に、油断をつかれてまたもろうばい、遂に全軍総くずれ、帷幕の諸将相ついで討死、中にも一族厚東義辰、富永又三郎らは崩れる味方の中心になって、奮戦よくつとめたが、もとより一木、大家の支えになろうとも見えず。両人とも乱軍の中に無念の最期を遂げた。

このありさまに猛将秋根の与市利澄は、「おのれ、何たる味方のざまぞ」と、いそぎ城中指して引き返し、おりから大将武村を守護して前に侍っていた、次男の軍太忠澄を心せわしく招き寄せ、「汝は早くここを逃れ出て、吉野の宮に仕えたる若殿武直様にこの様子告げ知らせ、はやはせ下りこの城に、再び厚東の軍旗押し立てて、家の仇、父の仇、討ちて給えといい参らせよ」と、父の先途を見届けて、われもこの地に討死せんという、若殿原の忠澄を、比りつっ云いつけ追いやれば、いつしか忠澄も乱軍の中にまぎれ込む。全身すでに数カ所の手傷を負うた利澄は、よろよろと武村の前に進み出で、「いくさも今はこれまでにて味方の諸将も大方討死、恐れながら御運も末と見て取った。

「いざ御自害を」と進言し、また立ち上って敵勢の中へおどり入る。さしも聞えた強勇の士も遂に力尽き果てて、敵の射ち出した矢玉の前に、壮烈至極の討死を遂げた。厚東駿河守武村は、このとき座を構え、自殺を遂げんとしたせつな、寄せ手の一将勝間田左近太夫はせ入って、後からただ一刀、武村が首討ち落とした。

かくて、城の四方に火を放てば、さしもに堅い四王司の守りも、武村の命運とともにむなしく焼け落ちた。厚東武村このとき年五十八。この年南朝の正平六年。(一三五一年)また一説によると延文三年、南朝正平十三年(1三五八年)ともいう。

このとき、武村の孫義武は、霜降山城にあってこれを知り、ひそかに城を出て難を安芸に避けたともいい、また九州の官軍に拠ったともいい、その行くえはまったくわからなかったが、後に九州官軍少弐頼尚に押されて一時長門に攻め込んで来たこともある。

とにかく四王司の城は、陶宮内少輔弘綱の猛攻によって落城、厚東氏の権勢もこれで地に墜ち大内弘世はここに全長門を併わせ、その力をもって次第に四隣に威望を加えて行くのである。


四王司城趾2

大内弘世の子義弘は足利将軍の信任厚く、泉州堺の津を領して明国との交易の権を掌握し大いに栄えた。南北朝合一のことについては、足利義満の旨を含んで奔走し、大いに功をなしているが、後に、意に反して兵を挙げ、武運つたなく破れ、城を焼いて敗死した。

義弘は山口を出るとき、あらかじめ後圖を策し次弟盛見に一切を託した。盛見は兄の出発後山口にあって、もっぱら父祖の地の経営ににつとめていたが、義弘敗死のときに、末弟弘茂が郎党平井道助の忠言を容れて陣中を脱し、足利将軍に降ったので乱果てた後許されて防長二国の守護職に任じ、その経営を命じられた。応永七年(一四〇〇年)のことである。盛見はこの報を山口で得た。

足利将軍のうしろだてを持っ弘茂の鋭鋒はあなどりがたいものがあったので、盛見は後日を期して一時難を九州に避け、かくて苦心のあとその翌年十二月長府に入るべく戻って来た。このころ、弘茂はすでに防長の権を握って、当時長府に出て佐加利山城にあった。

佐加利山城は、かって北条時直がいた探題館で、その位置四王司山の東ろくにあり、はるかに土肥山、串崎の城に対し、国府の街巷を一瞬のうちにおさめる瞼要の城であった。

豊後の国から戻った盛見は、すでに弘茂が長府に在城することを知って、まず船を長府の東厚狭都吉田川の川口(木屋川ともいった)に入れ、兵も付近の山中にかくし、さらに小月、清末、王司、員光の山地を潜行し、四王司山の裏山ろくに達した。緩急な山道を利して軍を進め、四王司山城に籠る弘茂の部将行方(なめかた)備中守を襲った。ここを攻め落とせば本城佐加利山城は足下にあり、唯一気にかけ下ればいいのである。

この行方備中守は部下の一部を割いて王司村才川から員光にいたる地点、さらに、員光の大門等に兵を配し、佐加利山城防衛のための広い、長い線を担任していたので、四王司の本城は意外の手薄であった。実に、この線は四王司山城のからめ手にあたって、ここの守りが破れればその守備はおぼつかない。

大門の付近には、数百年後の明治の時代まで松の老樹が残り、この戦いで戦死したものを埋め、標杭の代りに植えたものと伝えられていた。戦いはかなりの激戦であったが、盛見勢の猛攻に一挙に押されて多数の屍体を残して城中へ逃げかえったものらしい。

盛見は、味方の一同を集めて、「わずか二、三百の小勢で我に対する行方がふるまいかな。片腹痛い。それ押しつぶせ」と、部将宇野石見守治定、羽仁中務太輔を先陣とし、その勢一千余騎、害をならべて攻め上らせた。敵もさるもの、大将弘茂の信任厚い備中守、佐加利山城後詰の責重い四王司山を守って、わずかな小勢で引っ固め寄せくる多数の盛見勢を、山の中腹に食い止め大激戦、やがて力足らず破られて山頂へ、毘沙門堂を中心に追いつ、追われつ四半刻。もとより小勢の城方は、上下力をつくして戦ったが、次第に切り立てらられ、備中いまはこれまでとわずかなすきにふもとの方へ逃げ下らんと計ったが、盛見三千の本軍すでに佐加利山城との間を断ち、一歩も外へ逃れ出ることかなわず、乱軍の中にその身もまた、落城とともにあえない最後を遂げてしまった。

ようやくにして堅塁四王司城を奪取した盛見勢は意気衝天。越えて十二月二十九日、弘茂が籠る佐加利山城目がけて攻め下り、これをたちまち陥れて、大将弘茂を斬り、自ら代って防長二国の守護職となり、二州の経営にあたった。山口瑠璃光寺にある五重塔は、大内盛見が、兄義弘の菩提のために建てたものである。

大内盛見、幼名を六郎、永和三年(一三七八年)山口今小路の邸に生まれる。はじめ周防守ついで左京太夫、正五位、後また従四位、防長のほか豊前、筑前を領し四州の大守となる。永享三年(一四三二年)九州の雄族小弐氏と戦い、武運拙く筑前深江で戦死した。

四王司城については、この戦いののちは、この城による武将もなく、長く史上にその名を表わさずに今日を迎えている。

(下関古城趾史話 亀山八幡宮社務所)(彦島のけしきより)

四王司城趾(四王司山城跡)、下関市松小田