マッチと滝川 辯三 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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輸出品の主役が、繊維からマッチへ

世界的に評価の高かった日本製繊維製品だが、大正末から昭和戦前にかけて、マッチに主要輸出品の座を奪われる。在日華僑が生産した粗悪品が市場に出回るなどで、一時的に人気を落とした日本製マッチだが、第二次世界大戦直前まで輸出量は伸び続けた。


(平原健二コレクション関門浪漫より)(彦島のけしきより)


参考

① 瀧川 辧三(たきがわ べんぞう、平成の松下村塾)

明治・大正時代の実業家、教育者
1851(嘉永4)年〜1925(大正14)年

1851(嘉永4)年、長府村(現 下関市)で長府藩士の家に生まれ、長府の私塾「集童場」で学びました。

明治維新後、大阪開成所や慶応義塾、工部省の電信学校で最先端の知識や技術を学び、大阪や神戸の駅で当時重要な役割を担っていた電信技師として勤務します。

やがてその勤めを辞め、神戸にあったイギリスの貿易会社に入社。辧三は、良質の商品を外国に輸出することで国を豊かにしようと考え、日本で製造が始まって間もないマッチに着目し、1880(明治13)年、その製造・輸出会社「清燧社」を設立しました。倒産の危機に直面した後、独学で品質を改良し、世界に通用するラベルのデザインを工夫した結果、販路は世界各国に広がり、辧三は「日本のマッチ王」と呼ばれるようになりました。

ガスなどの公共事業にもかかわり、兵庫県を代表する実業家となり、1915(大正4)年には貴族院議員となりました。また、1918(大正7)年には、神戸に「滝川中学校(現 瀧川学園)」を創設するなど、社会に役立つ生き方を貫き、満73歳で亡くなりました。


② 主要輸出品だった繊維製品

(平原健二コレクション関門浪漫より)(彦島のけしきより)