下関市吉母 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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吉母小学校校庭での庭球(下関市吉母·大正初明)

学校の起源は明治7年、西光寺の一室を教室にして開校した寄藻小学校である。テニスを楽しんでいるのは先生たちであろうか。混合ダブルス、何ともモダンな光景である。

(下関・豊浦の100年より)


吉母郵便局

(郵便と下関 120年のあゆみより)


吉母御崎平家集落

(「関の廓」盛衰史 澤忠宏著より)


吉母浜遺跡調査(1961)

(綾羅木郷遺跡 下関の古代文化をめぐるより)


吉母

三韓征伐を終えられた神功皇后さまは吉母で、応神天皇さまをお生みになりました。そのとき、浜の“藻”を“よせ”あつめて体に巻かれ、身をあたためられたというところから、“よせも”が「吉母」になったといわれています。

近くの乳母屋神社は応神天皇に乳をお飲ませした神様で、杜屋神社は天皇をお守りした神様であり、また若宮神社は、天皇をおそだてになった神様といわれています。

それから、綾羅木の浜のことを“時の浦”といっていましたが、それは皇后さまの軍隊がこの浜で“ときの声”をあげられたことからきています。

また、安岡の地名も、最初は“やすらが丘”といっていたそうです。それは皇后さまが、この地方でひと休みされたことから、やすらが丘と呼ばれ、“やすらが丘”が“安岡”と次第に変ってきたのだといわれています。

(注)下関だけでなく、山口県には神功皇后さまと地名の関係の伝説がたくさんあり、それだけでも一冊の本になるほどです。

(『下関の民話』下関教育委員会編より)

(彦島のけしきより)


参考

下関市立吉母小学校、下関市吉母287

吉母海水浴場

本州最西端の地、毘沙ノ鼻

黒島観音からの吉母市街



応神天皇は吉母で生まれた(参考)