下関市立歴史博物館常設展示図録より、書画など1 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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69 篠崎小竹二行書

江戸時代後期の儒学者で頼山陽とも親交のあった篠崎小竹の二行書。小竹が西細江町の広江家を訪れた際に揮楽したものと考えられる。広江殿峯四男である広江秋水は、京坂に遊学した際、小竹と交流しており、同家の交友関係の一端をうかがうことができる。


70 頼山陽詩書

頼山陽は、江戸時代を代表する学者の1人。文政元年(1818)には、九州遊歴の途次赤間関に約40日滞在しており、この書はその際交歓した原田文漁·中川鯉淵·小田南陵に贈ったもの。


71 永富独嘯庵書

永富独嘯庵は、現在の下関市王司上町に生まれた医者。漢方,蘭方の双方に精通した医者として後世に大きな影響を与えるとともに、白砂糖の製造に成功するなど多方面で活躍した。


72 田上菊舎自画賛

田上菊舎による子犬の自画賛。菊舎最晩年の作品と推定される。


73 田上菊舍著 手折菊

田上菊舎は、現在の下関市豊北町田耕に生まれた女流文人。手折菊は、菊含が文化9年(1812)に出版した作品集。第1巻には東北地方行脚時の紀行や俳句、第2卷には東海道五十三次行脚時の自画賛、第3巻には友人らとの漢詩の唱和、第4巻には茶道や琴曲に関する事柄が収められている。


74 狩野芳崖筆 四季花鳥図

長府藩御用絵師である狩野芳崖は、幕末から明治にかけて活躍した。特に晩年は、フェノロサに師事し、伝統的な日本画に西洋画の技法を取り入れ、近代日本画の父と称された。



89 七卿落図

西下する三篠賞美ら七卿を描いたもの。
七卿は八月十八日の政変において参内を差し止められ、同時に堺町御門の警護を解かれた長州藩士らとともに長州へ下っていった。


90 七卿和歌

元治元年(1864)11月、長府·清末藩を頼って萩藩政府と一戦を交える覚悟をした諸隊は、五卿とともに長府へ向かった。長府藩はこれを受け入れ、五卿を功山寺へ奉迎し、諸隊を城下の各寺へ分駐させた。


91 瓦版御出張御固附

第一次長州征討時の幕府方諸大名の陣立等を描いたもの。徳川慶勝を総督とする征長総督府が広島に置かれ、西国諸藩に出兵が命じられた。


92 東久世通積書

七卿の1人である東久世が薩長和解に功労があった福岡藩を賞賛したもの。薩長和解は同藩士により活動がはじめられ、長府藩·岩国吉川家が窓口となって萩藩に働きかけた。また、中岡慎太郎や坂本龍馬もこの動きに加わった。


93桂小五郎書状 時田少輔宛

慶応元年(1865) 閏5月、長府藩士時田少輔が坂本龍馬の来関を桂へ知らせた書状への返書。同月6日には下関で桂と龍馬が会談した。薩長和解へ向けた活動が進められる様子が伝わる。


96 長州再征軍進発図(部分)

幕長戦争の際、進発する幕府軍を描いたもの。14代将軍徳川家茂や、付き随う旗本が描かれている。


(下関市立歴史博物館常設展示図録より)(彦島のけしきより)