曽根新田と綿都美神社、北九州市小倉南区 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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「小倉城下町さんぽ」 小倉南区東部編③

北九州市は大都市としては自然が豊かに残っていますが、今回は野鳥の宝庫・曽根干潟のある曽根新田、広大な田んぼとカニ・カキなど豊かな海の幸で有名です。

江戸時代まで経済の基本は「米」です。大名の所領や武士の所得はすべてお米です。お米の取れ高が豊かさの目安でした。

小倉藩は15万石ですから、隣の福岡藩47万石や熊本藩の54万石(幕末期)に比べると小さいですが、小笠原氏は譜代の中では彦根藩に次いで石高は高く九州でも6番目の藩です。

決められた領地内で、お米の取れ高を増やすには、新しく田んぼを増やすしかありません。それでどこの藩でも山を開墾したり海を埋め立てて田んぼを増やします。ただ重機もない時代、工事はすべて人力でやるのですから、任せられた庄屋や農民には大変な苦労がありました。

北九州市内の小学校では、猿喰(さるはみ)新田を開作した門司大里の庄屋「石原宗祐」のことを習いますが、その石原宗祐は猿喰新田開作の後、ここ曽根でも新田を開きました。

当時の小倉藩家老犬甘(いぬかい)兵庫知寛は、寛政4年(1792)曽根地区新田開発の責任者に石原を任命しました。工事は8年を要し、完成時には94歳に達していたそうです。石原は私財をすべて投げ打ち、完成時には財産をすっかり遣い果たしていたといわれています。約88ヘクタールもの広大な田んぼは、現在も"曽根新田"という地名とともに営まれています。

市指定無形民俗文化財の曽根の神幸行事(開作神事)が開かれる綿都美神社境内には、新田開墾記念碑と犬甘兵庫の顕彰碑があり、功績は、今に語り継がれています。

ちなみに昨年、勝山公園で上演された平成中村座の演目「小笠原騒動」で勘九郎さんが演じた犬神兵部は犬甘兵庫がモデル。犬甘兵庫は寛政時代に新田開発や課税の強化など小倉藩の財政改革を行い、藩財政を豊かにした功労者ですが、改革が急で農民に恨まれ最後には失脚、小倉南区頂吉の牢で生涯を閉じました。墓は小倉南区湯川の開善寺にあります。

※アクセス 西鉄バス「曽根新田」下車、徒歩15分 JR朽網か下曽根駅から約20分。



参考

綿都美神社、北九州市小倉南区中吉田1丁目23−10

曽根干潟 干潟の中の島の間島には古墳がある