戦後の関釜フェリーと戦前の関釜連絡船、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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① 戦後の関釜フェリー

フェリー関釜就航(昭和四十五年) 

昭和四十五年六月十六日、戦争で閉鎖されていた関釜連絡航路が再開され、二十五年振りに「フエリー関釜」が、我国初の定期国際フェリーとして就航した。


国際フェリー埠頭(昭和四十六年ころ)

中央の空き地には昭和五十二年に下関市民会館、右の空き地にはシーモール下関が開設された。


下関港国際ターミナル完成(昭和六十三年) 

船をモチーフにしたターミナルビルが新しく完成。フェリーは八月から毎日就航となった。


高速船ジェットライナー(平成三年)

下関港と釜山港間に、平成三年七月三十一日に就航。 その後、経営が困難となり、同四年十二月一日休航となった。


コンテナターミナル(平成四年) 

貨物輸送のコンテナ化に対応し、岬之町ふ頭にターミナルが完成。平成四年十二月から釜山との間に週六便が就航している。


② 戦前の関釜連絡船

関釜連絡船桟橋(大正十三年)

明治三十八年九月に初めて就航した当時は、桟橋に接岸できなかったが、大正三年に桟橋ができ接岸できるようになった。船は新羅丸。


関釜連絡船(昭和十年代)

関釜連絡船の輸送実績をみると、昭和十八年、金剛丸·興安丸.天山丸.崑崙丸などで一年間に約280万人もの乗降客を輸送している。


巌流島と興安丸(昭和二十二年) 

興安丸は、昭和二十年八月三十日、徳寿丸などとともに終戦による引揚げのために運航を再開。舱腹には赤十字のマークが記されている。中央の島は巌流島。


崑崙丸(昭和十八年)

天山丸の姉妹船で、昭和十八年四月、関釜航路に就航。同年十月五日、釜山へ向かって航行中、米国潜水艦の魚雷によって沈没した。

注: 日和山に慰霊碑がある。


天山丸(昭和十七年)

崑崙丸の姉妹船で、昭和十七年九月、関釜航路に就航。同二十年の七月二十八日、隠岐島へ向かう途中、米軍機の攻撃を受けて沈没した。


興安丸(昭和12年)

金剛丸の姉妹船で、昭和和十二年に関釜航路に就航。戦後は引揚船として活躍した。

注: 関門港は機雷や沈没船で入港出来ないため、仙崎港や敦賀港に入港した。


金剛丸(昭和11年)

興安丸の姉妹船で、昭和十一年に関釜航路に駪。当時、世界的な優秀船として「玄海の女王」と呼ばれた。同二十年五月、博多湾で触雷沈没した。


(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)(彦島のけしきより)