宇部港湾整備計画できる
海底炭坑の掘進には落盤事故が起りやすい。埋立てをしっかり造成しながら操業しなければならない経営者側の苦労があった。
そうした困難のなかで、荷積みは無秩序に行われていたのである。自家用桟橋を自由につくって石炭船に積込んでいた。
企業まかせの港湾利用に、行政がようやく手をつけた。大正一五年、宇部港湾整備計画ができたのである。
婦女子の入坑禁止
石炭採掘の坑内作業には家族ぐるみで働く人たちもあった。
炭を掘る人、運び出す人、それぞれ分に応じて仕事を分け合っていたが、昭和四年、法律によって、婦女子の坑内作業が禁止された。それ以後は、婦人労働者の作業は、石炭を選別する選炭作業が多くなった。
中国電力宇部発電所完工
宇部電気会社は大正一三年四月一日、県営に移管されていた。電気会社の事務所は、県電宇部出張所と改称された。
同社の工場は、第一火力発電所になっていた。昭和二年四月一日、第一火力発電所に四〇○〇KW品発電機一台を増設して宇部市内はもとより県下に渡って大幅に電力を供給することになった。
海辺に空港
草江の海岸に航空輸送研究所と称するものが出来た。葉方久義という人物が、渡辺祐策の援助で設立したものといわれる。
はじめは、別府、朝鮮の大陸間の航路を開く計画であったが資金難のため実現しなかった。昭和一二年、日華事変に突入の前夜できびしい航空規制がはじまり、宇部市上空は民問航空禁止区域に指定されたため研究所は閉鎖された。
市営ガス供給開始
市営ガス事業が着工されたのは昭和六年である。
現在市が経営している公営事業は、ガス、水道、バスの三部門であるが、水道事業に続いてガス事業は早くから着工されていた。
しかし、燃料に不自由しない市民には余り利用されなかった。「便利ではあるが安い石炭があるから」という声があった。家庭用の石炭は安く入手できたし、手まめにすれば海辺で拾ってくることも出来た時代であった。
宇部窒素工業の創立
昭和六年に満洲事変がおこって東洋の国際事情はけわしくなった。昭和七年、バルカン半島も騒がしくなった。第二次世界大戦の導火線が燃えはじめた昭和八年四月、宇部窒素株式会社が創立された。
世界的な不況のさなかであった。大学を卒業したという履歴が邪魔になって就職できない学卒が巷にあふれている頃、窒素肥料会社の創立は市民に種々の期待をかけられた。
中津瀬神社の玉替行事
庶民は誰でも祭りが好きである。祭りも神前に柏手して拝むだけでは気がすまない。競馬、角力、見世物興業など、自ら参加して楽しめる行事が好きである。水神様を祀った中津瀬神社は、市街の真中にあるが、五月五日のこの祭礼は、玉替の行事で賑わう。
花柳界は大繁昌
「宇部村は、石炭の暴騰につれ近来蓄妾が流行。現に妾の数三〇○余を算す」と、明治の末期に朝日新聞が記事にしたことによって、村内に物議をかもしたと記録にのこっている。
ことの真偽は別として、金と女性は一緒について動くもののようである。老松町と呼ぶ遊廓街ができて繁昌したことは今も語り伝えられている。遊廓の周辺は料理屋、カフェーで夜更けまでさんぎめいていた。
常盤通りに鈴蘭燈
新川橋は市街地を東西に二分する扇の要であったが、商家の密集する両側は、悪路の代表的なものであった。
雨が降る時は自転車をかついで裸足で歩くと悪口をいわれていたが、その悪路のメインストリートに鈴蘭燈がついたのは昭和六年も終りの頃であった。石炭ガラの混じった砂利道を鈴蘭燈が照らす、と陰口叩かれているうちに翌年は道路舗装が実現した。
宇部と小野田を結ぶ鉄橋
大正一四年、沖ノ山炭坑は、小野田刈屋に新沖ノ山炭坑を設立し干拓埋立地を造って採炭をはじめた。
掘り出した石炭は、本山岬を迂回して新川港に運んでいたが、海上輸送には事故が多く、不便を解決するために、小野田と宇部を鉄道で結ぶ計画をたてた。厚東川にかけた鉄橋は、昭和四年に完工し、二つの町の握手は成就したのである。
神原園に市民ひろば
昭和三年に市街地の真中に公園が出来た。天皇即位の御大典を記念した市民ひろばの建設であった。神原公園と名付けた。
公園の隅に、幕末に自刃して国難に殉じた福原越後の銅像を建設した。公園には市民の寄付でサツキ一〇〇○本が植えられたが、第二次大戦に突入すると、銅像は献納、公園は芋畠となり、戦後は一部住宅地に転用された。現在は緑の木立濃い公園の姿をとり戻している。
文芸誌の刊行
文学不毛の地という言葉は、地方人が中央に対する劣等感の代弁である。文学は、どんなところにでも土壌さえあれば育つものである。宇部では、地名にゆかりのある「無辺」という文芸誌が、昭和三年に創刊されている。
評論、歴史、短歌、俳句などの文芸ものを集めて総合雑誌風の内容であるが、毎号、巻頭に宇部市憲五ヶ条が掲げられていたから、宇部人教書ともなったであろう。
渡辺翁、道重上人逝去
昭和九年は宇部市にとってかけ替えのない二人の人物を失う悲愁の年であった。一月二九日には芝増上寺の管長道重信教上人の遷化を、七月二〇日には渡辺祐策翁の逝去を見たのである。
渡辺祐策は、宇部経済の基盤づくりに終生を賭け、道重信教は、生きることの尊さを宇部市民に教えた人である。渡辺翁の功績に対して市は、市民葬をもって報いた。
繁栄を続ける窒素工場
石炭、鉄鋼、セメント、窒素肥料は宇部興産の四大主柱であった。
昭和のはじめ秩父宮から宇部市今後の経済動向について問われた時、渡辺祐策は、窒素工業に転換すると答えたと言い伝えられているが、先取りした渡辺の計算は狂わなかった。
戦後は中安閑一社長自ら販路を拡張して行く熱心さで今日の繁栄を見せている。
ソーダ会社創立
昭和一一年一〇月、宇部曹達工業株式会社が創立された。
昭和一一年といえば二·二六事件が勃発して東京には戒厳令がしかれた年である。国際情勢の微妙な動きのなかで、地方で活躍している企業家は、冒険にも等しい決断を迫られていた。
ソーダ工業は、沖ノ山炭坑を基幹として窒素工業に転換した前例にならって、東見初炭坑の経営者の手で創立を見たものである。
(明治大正昭和「宇部」より)(彦島のけしきより)