北九州市内の洞海四区の小学生は、よいこの社会科で必ず習ったと言う遠賀堀川
昨年?今年かな?よいこの社会科 そのものがなくなったそうですが、私の頃は、そんな授業がなく、よいこの社会科は八幡製鉄のことばかりでした。
引っ越してきて、その名 堀川を知り、黒田騒動で堀川大膳を知ったくらいで、疑問なのですが、石炭を積んで若松方面に行く場合川を下るのですから、いいとして、空荷の船の川上り脇の道を使って引っ張っていくらしい。
それが場所によって右に行ったり、左に行ったり。立体交差もないのに、どうやってかわしていたの?
折尾高校下の、たぶん車返しの写真は川上に向かって右が上り、左が下り。下りは間隔も開けていて、上りは船をまとめて遥か彼方数人で引っ張っている。
なのに、長津村中間の唐戸の写真は川上に向かって左が上り、右が下り。謎だ。
もう一つの疑問、まあこれは、それしかないのだけれど、唐戸の大きさから、大渋滞していたと思うのだが、やっぱり、大人しく待っていたのかな?
石炭運搬、堀川の往復って、どれくらい時間がかかったのかな?渋滞するから、堀川沿いの町は発達したのかな?
折尾の福岡銀行は堀川に面したところが正面玄関だったようだし、折尾駅も堀川に向いて入り口があったね。謎だ。
ちなみに、門司 小倉の小学生は猿喰新田について習っていたとか。
香月村寿命の唐戸の写真、状況からして、川下に向かってだよね?
参考
① 中間市(参考)
② 福岡県(参考)
③ 中間(なかま)の唐戸
④ 寿命(じめ)の唐戸