① 牛による耕作
牛に直進を指示する場合、我が家では「タシ」と言って手綱を波打たせて胴体に刺激を与える。子牛に重石を乗せたソリを曳かせて、馬喰(博労、バクロウ)がトレーニングしていた。
下の写真の遠景に稲藁を積み上げた「としゃく」が見える。
荒起こし
田植えの準備のため、牛に鋤を引かせ荒起こしを行う。牛の扱い方は右に進めさせたければ「セィ」、左は「サシ」、止める場合は「モー」と指示し、手綱を引く。〈豊北町内·上:昭和30年頃·提供 = 佐々木猛氏〉
② 田植え
田植えは農家一軒では無理で、手伝いが必要であった。我が家では、田植えの済んだ他地区(豊北町あたり)から人を雇った。もちろん、日当の他に食事と就寝のお世話もした。
田植え
田植えは近所や親類縁者が手伝う 「ユイ」によって行われ、山手から水が先に入る田んぼの順に行った。写真の女性たちの前にあるのは田植え定規で、 これに沿って田植えを行った。〈上:王司神田. 昭和30年代· 提供=岸本隆氏、下:豊北町田耕·昭和36年, 提供=豊岡哲也氏〉
③ 稲刈り
我が家では、稲を刈った後に直ぐは脱穀しなかった。稲束を乾燥させる為に、竹の竿に下げる作業があった。
稲刈りと脱穀を同時に行うのは、コンバインが導入されてから本格化した。
手作業ではなく機械で稲刈りを行うようすは、現在とあまり変わらないが、脱穀した米と子どもをリヤカーに載せ運ぶ光景はなんとも昭和らしい。〈王司神田-昭和47年,提供 = 平井敬司氏〉
④ 脱穀
我が家では、稲束を水田で乾燥させて、乾いた束を牛車で運搬して納屋(ながや)で脱穀した。
この納屋には三相200Vの電力を使うモーターがあった。ちなみに脱穀機は長府製作所製であった。
⑤ 籾の乾燥
脱穀した後、籾を天日干しするが、我が家では、その為の広場を母屋と納屋の間に設けていた。この広場を「ほか」と呼んでいる。
今では、JAのライスセンターで一括して乾燥・籾摺りをするようだ。
(下関市の昭和より)(彦島のけしきより)