源平船合戦
みなと祭で行われる行事のひとつで、昭和30年から始まった。壇之浦の合戦を模して行われ、武者が乗り込んだいくさ船が海上をパレードする。みなと祭最大の見どころ。〈関門海峡,昭和39年,提供=平井敬司氏〉
しめなわ祭り
海上安全を祈願する祭り。昔、海中にある岩が倒れ不漁となり、災いも続いて起こった。そのため岩を起こし、注連縄をかけたところ大漁となり、災いも消えたため、豊漁と海上安全を祈願する行事として昭和26年から注連縄を奉納するようになった。〈壇之浦町·昭和54年·提供= 平井敬司氏〉
うに供養
フクとともに下関の名産として知られるウニを供養するもの。昭和34年から県雲丹製造工業協同組合によって、毎年10月20日に行われている。赤間神宮で供養した後、関門海峡にウニを放流する。〈阿弥陀寺町·昭和 56年·提供=下関市〉
亀山八幡宮の御神幸式
秋季大祭の本殿祭で行われる。本神輿一基とお供する子ども神輿16 基が出て、氏子町内を練り歩く。各町内の氏子によって順に担がれ、御旅所では祭りの世話人である当元が神奥にお供えもする。そして町内を巡った後、神社に戻り直会が行われる。大正初期まで各町内からシャギリ山が出ていた。(唐戸町·昭和 30年,提供= 奥野潤一氏)
恵比寿神社祭り
恵比寿神社は安政4年(1857)に菅原神社の相殿として龍られた。商売の神様として商家から崇敬が篤く、毎年12月1日から3日まで戎祭が行われていた。〈南部町·昭和29年·提供=奥野潤一氏〉
附野薬師東山寺の春の大祭
釈迦の生誕を祝う行事で、誕生を喜んだ龍が甘露の雨を降らせたという故事に基づき、釈迦像に甘茶をかけ無病息災や家内安全などを祈願した。 出店も多く出て、下関や北九州、美祢郡、大津郡、豊浦郡から参詣者が訪れた。〈豊北町神田附野。年代不明,提供 = 下関市豊北歷史民俗資料館〉
二見若宮神社の秋祭り
若者たちによって神輿が海上を渡御される、浜降りの神事。これは神威を新たにするための覗の意味合いがあるという。〈豊北町二見·昭和59年·提供=下関市豊北歴史民俗資料館〉
蓋井島「山の神」神事
蓋井島で、戌と辰の年に行われる。この神事には、「75」という数字にこだわりが見える。神が戻った後、75尋の縄で巻きつけ神が里に戻らないようにし、神職の前のお膳も75膳など。民俗的な行事として貴重な神事。〈蓋井島·昭和57年·提供=下関市〉
賀茂島の御神幸
龍王神社の祭礼で10年に1度行われる。龍王神社から神奥、稚児、錦旗、御名代、槍持ち、弓持ち、金幣、御神刀、花、楽隊など吉見港へ向けて出発し、港からは船で賀茂島へ向かう。上写真は賀茂島へ向かう神與を載せた船団。下写真は賀茂島での神事のようす。〈上:昭和61年,提供-谷山昇氏、下:昭和51年,提供= 下関市〉
豊北町文化産業祭
昭和38年から農協と商工会の主催で開催された。
写真は会場であったのだろうか滝部小学校が写る。同58年からは豊北町ふるさとまつりとして行われるようになった。〈豊北町滝部 昭和30年代提供=下関市豊北歴史民俗資料館〉
恵比寿祭りで相撲大会
漁業者の豊漁祈願の祭りで、豊北町内の各浦々で行われる。祭りの日は漁を休み、各々の地域で神事を行った。写真は恵比寿祭りで行われた特牛町内中学生の相撲大会のようす。〈豊北町特牛·昭和30年代·提供 =下関市豊北歴史民俗資料館〉
斎八幡宮の例祭
矢玉青年会の面々が神輿を担ぎ、浜まで御神幸をし、獅子舞や浦安の舞が奉納される。〈豊北町矢玉,年代不明,提供=下関市豊北歴史民俗資料館〉
腰輪踊り
享保の飢僅の頃発生した疫病を鎮めるため、阿川村の赤崎社で奉納していた。太鼓を抱え、パチで打ち鳴らしながら踊る民俗芸能で楽踊、念仏踊などとも呼ばれる。のちに赤崎社が滝部八幡宮の境内に遷座され、現在は八幡宮の春祭りで奉納される。昭和53年、市の無形民俗文化財に指定。〈豊北町滝部,昭和 20年代·提供-藤川徹氏〉
みかがみ祭り
大川の客神社で13年に一度行われる稲の収穫祭である。「お室」と呼ばれる神が鎮まる社やご神体と米を入れるヒノキの箱を新しく作り替え、五穀豊穣を祈願する。かつては神事のほかに子どもたちによる神楽も奉納されていたが、昭和32年以降途絶えている。〈豊北町神田·年代不明·提供= 下関市豊北歴史民俗資料館〉
相撲
刈り取りが終った後の田んぼに設けられた土俵で行っている。〈豊北町滝部·昭和58年頃·提供 =下関市豊北歴史民俗資料館〉
長府花まつり
釈迦生誕を祝う仏教行事で蒲仏会、仏生会ともいう。白い象をひくのは釈迦の母が懐妊した時、白象がおなかに入る夢を見たという話に基づく。〈旧長府町内 昭和52年,提供 = 平井敬司氏〉
数方庭祭
忌宮神社で毎年8月7日から13日まで行われる神事である。仲哀天皇の頃、新羅の塵輪が境内に攻めて来た時、天皇自ら矢で鹿輪の首を射落とし、庭に埋め、その周りを矛や刀を振りかざし踊ったことが起源とされる。男は大職と呼ばれる 2、30メートルの竹を担いで踊り、女は切篭という燈篭をつけた七タ飾りをもって踊る。昭和45年に市の、同59年には県の民俗文化財に指定されている。〈長府宮の内町·昭和53年·提供=下関市〉
観音寺火渡り
無病息災を祈願し参拝者が念仏を唱えながら燃え残りの火の上を歩く。〈南大坪町,昭和55年,提供 = 平井敬司氏〉
サイ上がり神事
彦島開拓の祖、河野通次が海中から引き揚げた鏡を一族の守り本尊とし、社を建て祀った。その際、通次は鎧を身に纏い槍を持って一族の繁栄を祈願し「我らの守り本尊、さあ上がらせ給う」と大声をあげて踊ったという。これがサイ上がり神事の起源とされる。祭りの主役は彦島十二苗祖の子孫たち。子孫たちは武具を付け潮掻き神事を行い身を清めた後、舞台で通次が鏡を引き上げたようすを意味する舞を踊る。〈彦島迫町·昭和50年代·提供= 下関市〉
彦島祭
三木商店前で撮られたシャギリ隊。山車の上には「優勝」の文字が見えるが、山車のコンクールでも開催したのであろうか。〈彦島本村町·昭和26年·提供 =和田亮氏〉
盗餅馬作り
盗餅とは子どもたちが藁で作った馬をお盆に載せ、各家を回り、馬を置いていく代わりに祝儀をもらう民俗行事である。「トへ、トへ」と叫びながら家の人に見つからないよう家の縁側などに馬を置き、家の人が馬を受け取ったら代わりにお金やお菓子をお盆に置く。それを見届けた子どもたちはその盆を取りに行くのだがその際、家の人は福をすべて持ち去られないよう、子どもたちに水を浴びせるので、これをかわしながら家をあとにするのである。写真では老人が盗餅馬を作っているがかつては子どもたちが作った。〈員光町·昭和50年代·提供=下関市〉
福江八幡宮の祭礼。清めの神事の後、流鏑馬場へ行き、8歳から12歳までの2人の子どもによる流鏑馬が行われる。竹すだれで作られた的めがけて、馬上から矢を放ち、五穀豊穣を祈る。〈福江昭和47年·提供 =下関市〉
永田神社秋季大祭
右に見えるのが氏子らがつくった長さ約3メートルの花飾り。青竹に麦わらの束を巻き付け、白、黄、緑などの色紙の花を取り付けたもので、重さは約 40 キロにも及ぶ。力のある氏子らが神社前から御旅所間を何度も往復し奉納した。かつては2本作ったというが現在は1本となっている。〈永田本町·昭和57年· 提供=下関市〉
亥の子祭り
11月上旬の亥の日に収穫を祝う子ども祭が王喜各集落に伝わる。重ね餅大の、亥の子石 (側面に鉄輪をはめて綱を多数締結)の綱を同時に引くと浮き上がり、放すと落下して地面を突き固め、窪みを造る。各家の願いを聞いて、五穀繁盛、家内安全、商売繁盛、いずれかの発声後「ンノコイノコ、イノコ餅を揚いてから、 家の土台を突き固め、ワッショイワッショイ、祝いましょう!」と祝って集落を廻る。〈松屋本町·昭和40年代·提供 =西村保子氏〉
(下関市の昭和より)
亥の子まつり(11月中旬.王喜中原)
五、六歳から十五歳までの男子が、石をつけた綱を引き、土をつく。周囲の家々をめぐって家内安全などを祈る。
亀山能翁渡し(十月中旬·亀山八幡宮)
長府藩初代藩主毛利秀元が、翁面を寄進したことにはじまる。神前で翁の面が本能初番の能士に渡される。
夏越祭(七月三十日·亀山八幡宮)
社殿前に"茅の輪"が設けられ、輪をくぐると、夏を元気に過ごすことができるという。夜は花火大会や福引などが行われる。
吉田川まつり(七月最終土曜日·吉田河川公園)
灯ろう流し·花火大会·平家踊り大会などで、夏の夜を楽しむ。
(彦島のけしきより)