吉見・吉母地区のお話し、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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吉見、吉母地区


吉母・御崎への道

都市の発達にともなって次々と自然環境が破壊され消滅し、 緑の自然は次第に郊外へと後退しつつあるが、 下関の西端、古母あたりはまだ海も山もあざやかで、 夏には北九州からもたくきんの海水浴客が押しかけてくる。

吉見永田町の国道191号線からわかれて、 左に入るパス道路をまっすぐ上ると峠があり、目の下に広がる吉母の海の眺めがすばらしく、だれでもちょっと車を降りたくなる。

峠を左に行くと海岸に出るが、左に曲がらずそのまま進み、若宮神社の前を通り抜けて山手の道をとると、山腹を縫って吉母の裏側にあたる、 おおこら(大河原)の海岸へ出る。

黒嶋を左に、蓋井島を正面に望んだここの景色は格別で、 人気のない磯に、波音だけがきさめき、見る人のないのがもったいないような美しさである。

そしてこの道はさらに二の山を登り御崎(みさき)に通じている。二の山は原生林の姿そのままで椎や概の大木がうっそうと繁り、車は緑のトンネルの下を大きく迂回しあえぎながら登っていく。

中腹の曲がりかどにある山桜の老木はみごとで、春には真白な花が雪をかぶったように咲きこぼれる。瑠璃色(るりいろ)の空と海を背景にして、新縁の映える山あいに、白い炎のように燃える山桜の姿は凄絶なまでに美しい。

また頂上近くの展望もすばらしく、松林のそろった黒鴨のシルエットが手にとるように浮かび、夢幻的な詩情をただよわせている。峠をくだればしばらく桜並木が続き、急傾斜の坂道はそのまま落ち込むように御崎の村落に達している。

御崎は吉母から四キロも離れた山奥で、深い山が海になだれこんだ所にあり、平家落人の伝説もうなずかれる秘境で、きらに美しい風景が続くのである。


内日峠への道

吉見温泉センターの入口近く、農免道路の交差点に古い道しるベがあり、農免と別れて西の道を行けば町や海岸へ出るが、東の道は、山を越えて内日の赤田代に通じている。この山道は竜王山の続きで、険しい峠を越さねばならず、内日までは遠くなかなかたいへんだが、途中の道はすばらしい。

山手へ入ると教軒の農家も途切れて蜜柑畑が連なり、左手には、鍛冶原溜池というきれいな池が広がっていて、そこから吉見の里が眼下に望まれる。

舗装した道も切れて山道になると、小川のせせらぎがあって、道端にぼつんとお地蔵さんが座っておられる。あまり人通りもない所なのにと思ってしらべてみると、釈妙音信女、俗名おたつ、文化九(一八一二)申十二月十八日とあり、何かいわくがありそうである。

折よく通りかかった老婆に聞いたところによると、おたつという女性が内日へ嫁入りすることになったが、大きな山を越えたまだ見ぬよその土地の内日が不安でたまらず、どうしても決心がつかず、かといって断ることもできず、悩んだ果てに悲劇があったらしく、その供養塔だそうである。

さてその山越えの険しい道は車では駄目で、今も吉見から内日に行くには、一旦、安岡まで出て長安線を回り、川中の石原から勝山を経て入らねばならないのであるから、昔の純情な若い娘には、山向こうの内日がはるかに遠く外国のように思えたのは当然だろうし、親せきも知人もいない土地がよほど心細く心配に思ったのは無理のないことであろう。

当時のうら若い彼女の気持をしのびながらたどる山道には、つわぷきの花やむらさきしきぶの実が美しいいろどりを見せていたけれども、何故か足の運びが重い坂道であった。


注: 今では車が通行出来る舗装された林道がある。


吉見安養寺

吉見駅から西田川をさかのぽって歩いて行くと、民家がとぎれたあたりで左の山手に入る道があり、上り坂をたどって行くと、ミカン畑の中に池が見えかくれし、やがて桜並木の向こうに安養寺が現われ、さらに登ると福祉施設のよしみ園がある。このあたりから眺めるひろびろとしたみどりの田園と、その彼方に青く光る日本海の風景は実にすばらしい。

境内には、下関市の文化財に指定さ れた宝きょう印塔がある。安養寺の宝きょう印塔とは、呪文を納めた小箱を配った石塔という意味らしいが、鎌倉時代から五輪塔とともに、供養塔や墓塔として建てられたものである。

安養寺の石塔は高さ四メートル以上もあり、明和六年(一七六九)に建造された供養塔で、台座の中段と下段が中空になっているので、上段台座の穴からのぞくと、底に一宇一石(小石に経文を墨書したもので祈願、追善供養のため土中に埋める)の入った壷を見ることができる。

またこのお寺には、大内義長の安堵状や毛利元知(清末初代藩主)の寄進状など、数多くの貴重な古文書や菊の御紋の入った袈裟などが残されていて、格式の高かったことを物語っている。

寺宝の中の一つにえんこう銭という珍しいおもしろいものもある。何代目かの偉い住職が油谷町に招かれて行ったとき、村人たちがえんこう(河童) を捕えて殺そうとするのに出会い、可哀そうに思い、村人たちを説得して逃がしてやったのだが、そのとき助けてもらったえんこうがお礼にくれたのが、このえんこう銭ということで、何かわからぬ模様の入った鋼貨のようなものである。

さて山門を出づれば、桜並木を渡ってくる風がさわやかであり、眼下の美しい眺望に心が洗われるようであった。


毛利元義と吉見塩田

長府毛利藩の十一代元義が文化人として名高い殿様であ ったことは、曲水の宴で紹介したが、彼は詩を作り絵を描くことにもすぐれ、浄瑠璃も堪能で、清元の三名作の一つである「梅の春」の作詩者として有名である。

さらに焼物にも関心を示し、鷹羽焼や松風焼を奨励するなど多彩な趣味をもち、学者や詩人、俳人、画家などを優遇したので、長府藩には数多くの文人が育ち、文化の花を咲かせた。

元義はまた藩政の改革のため軽輩を登用し、相場会所の開設、吉見塩田の造成、彦島の開拓や才川の開拓にも着手し成功をおさめ、産業振興の面でも大いに実績をあげている。

この中でも私は特に吉見塩田の造成に興味をひかれるのであるが、塩の生産については、昔から雨量が少なく日照時間の長い瀬戸内海岸が適地であることは常識で、長州藩では三田尻の塩田が特に有名であり、長府藩では王司地区に小規模なものがあった。

元義が従来の常識を破り、山陰北浦の吉見に塩田を開発したのは画期的なことであり、彼の卓越した見識と事業熱に敬服するのである。

文化元年(一八〇四)、国内ではじめて日本海側につくられた吉見の永田郷塩田は、入り浜塩田で発足したが、軌道に乗るにつれて実績があがり販路も拡大され、文化四年には年間総生産高が千六百トンにも達して藩財政を助けたのである。

このような経緯をたどってきた永田郷塩田も時代の波には勝てず、戦後の製塩技術の発達と工業塩の輸入により、他の塩田と同じく斜陽の運命をたどり、昭和三十五年に廃止となって約百五十年にわたる歴史を閉じたのである。

永田川両岸の塩田跡は埋め立てられ、住宅が建ち並んで往時の面影はなく、潮止めの水門にさえぎられとまどっている、満々と湛えた上げ潮の風景を見ると、はるかな時の流れをしみじみと思うのである。

注: 永田神社より北の水田も古代の塩田跡地であり、奈良時代から製塩が営まれ、忌宮神社に納められていたとの文書が永田神社に残っている。


夕映えの鴨島

国道一九一号線を北浦へ向かって走ると、安岡の横野を過ぎるころから道路沿いに海が見えかくれしながらついてきて、ドライバーの目を楽しませてくれ、そして難所の吉見七曲りのあたりから、 海上約千メートルの沖合に松の生えた美しい島影が見えてくる。この島は姿が浮き鴨(かも)に似ているので鴨島と呼ばれ、賀茂島、加茂島とも書き、潮が満つれば三つの島にわかれるので三つ島ともいわれている。

鴨島は吉見竜王神社の飛地境内になっており、十年毎に賀茂島御神幸祭が厳かにとり行われるが、これは神功皇后三韓征伐の楽勢行列に由来したものだと伝えられ、去る昭和五十一年の十月に盛大に挙行された。

竜王神社から出発した御神輿には、大のぼりや太刀, 槍,弓を持った三百人の者が供奉し、勇壮な笛、太鼓の音も高らかに海岸まで行進し、ここで御神輿を御座 船に移し、大漁旗を飾りたてた数十隻の船が貿茂島までお供するのである。そして島で神事が行われるが、この島は女人禁訓であって、これを犯すと大シケになると伝えられ、また島の石を持ち帰ってはいけないといわれている。

さて鴨島のいちばん美しい姿は、何といっても夕映えのときであり、有名な宍道湖の落陽にもひけをとるものではない。たそがれの響灘の彼方にゆっくりと陽が落ちるとき、三つの島はしっとりと落着いたシルエットを浮かばせ、逆光に映えるさざ波と調和して夢幻的な光景を描き、夕陽が沈むまで刻々と美しく変化して魅力をただよわせ、いつまでもいつまでも見あきないのである。

(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)


寒干し大根

吉母に冬が訪れると、田んぼには竹が立てられ大根が干される。皮を剥いた大根を4つに割り、天日にさらす。もともと自家用で作っていたが昭和 40年代から出荷されるようになった。〈吉母 昭和 40年代·撮影 = グループSYS〉

(下関市の昭和より)(彦島のけしきより)