門司の唐人墓 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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門司の唐人墓

攘夷討幕の念に燃える長州藩は、文久三年(一八六三)の五月に、関門海峡通過のアメリカ商船や、フランス軍艦、そしてオランダ軍艦を次々に撃ち払い気勢をあげたが、六月に入ってからすぐに、アメリカ軍艦やフランス軍艦から反撃を受け、手痛い被害をこうむったのである。そしてさらに翌年の元治元年(一二八六四)八月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ四カ国の連合艦隊が来襲して、長州藩の前田、壇ノ浦をはじめとする各砲台は、徹底的に破壊されたのである。

この戦いにフランス軍は、デュプレックス·セミラミス·タンクレードの三艦が加わって応戦したが、長州藩の死にもの狂いの抵抗に、死者二人、負傷者九人の犠牲を出している。

北九州市門司区のめかり公園内、関門国道ト ンネル人道口付近の丘の上に、海峡を見下ろすように建っているこの十字架の墓標は、あまり知られてないが、当時のフランス軍戦死者を埋葬した墓であり、地元では昔から唐人墓と呼んで供養してきたようである。

はじめの墓標が朽ち果てたので、明治二十九年(一八九六)にフランス人宣教 師ビリオン神父により石碑が建てられたが、戦災に遭ったのであらためて昭和二十六年に、現在のコンクリートによる慰霊碑に建てかえられたのである。

碑文はフランス語で「一八六四年九月(実は八月)五日、六日下関戦争で戦死 したデュプレックス号およびセミラミス号フランス海兵隊員の記念碑」と書かれている。思えば明治維新の黎明の陰には、このように外国人の犠牲者もあったわけで、心から襟を正さざるを得ないのである。

関門橋の彼方に沈む夕日を受けて、静かに建っている白塁の十字架は、あまりにも気高く美しく、異国の地に淋しく散った犠牲者の命の尊さが、しみじみと思われるのであった。

(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)