旧下関英国領事館 下関市唐戸の盛衰とともに | 日本の歴史と日本人のルーツ

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領事館 唐戸の盛衰とともに

「午後であった。太陽が海峡の向う側にまわって、街の上に夕暮れの色が落ちはじめたころ、前田村の方から遠い砲声がひびいた。続いて長府、杉谷、壇之浦、彦島の台場に煙があがって街と海峡の上に不吉な音波をひろげた。街は瞬間沈黙した。人々は酔っぱらった顔を見合わせた。そして、砲声が黒船の来襲を警告する合図であることを理解すると、狂人のようにあわてはじめた。祭礼の騒ぎが、避難の混乱にかわった。人々は仮装をおとし晴れ衣をかえる暇もなかった」(林房雄「青年」より)

元治元年(一八五四)八月四日夕、英米仏蘭の四国連合艦隊十八隻が海峡に到着、翌日から三日間、下関側は必死の防戦につとめたが負け戦だった。このとき、若き日のアーネスト·サトウが通訳官として艦に乗組んでいた。まさか後になってこの親日家が下関に影響を持つようになろうとは、おそらく誰一人として予想だにしなかったであろう。

のちに駐日英国大使となったサトウは明治三十二年、関門両港出入りのイギリス船が四百三十隻にものぼっていると本国に報告、下関には将来領事館ほ置くべきであると進言したのである。のちに駐日英国大使となったサトウはこの報告の中で「関門両市の距離は汽船で約20分。狭い海峡を隔てて相対し、両地とも税関はあるが、一つの港を形づくりしかも両市で合併を促進しようとする機運にある」と、きわめて興味深い意見を述べ、領事館の必要性を説いている。

これがきっかけとなって明治三十四年、赤間町に領事館(仮事務所)が開かれ、西南部町の瓜生商会の二階に移るなどした後、三十九年に唐戸の現在地が市から提供され、赤レンガの洋館が建てられたのである。

設計者は日本の初期洋式建築に大きな足跡き残しているアレクサンダー·ネルソン·ハンセルであった。明治-大正にかけて、下関では他にオーストリア、ハンガリー、ドイツ、ポルトガルの領事務もとられていた。ドイツ領事館は明治四十一年から二年間、城山の市有建物を借り切っていたほど。

地方にあって、まさしく国際都市であるが、英国領事館はその国際都市·下関の一つのシンボルでもあった。

第二次大戦に突入してからは領事館事務は事実上停止したが、地上権や建物はそのまま。これが愛国心強き市民の反感をかって、領事館に市民が押しかけるという騒ぎまであった。終戦後、イギリスとの国交も回復したが、領事館は閉鎖状態が続き、昭和二十八年、レンガ造り二階建て320平方メートルり本館と、木造平屋66平方メートルをそっくり市が買収、赤レンガ造りの歴史的建物は市有財産となったのである。

現在、考古館として歴史考古資料が展示されているが、一部内装をしたくらいで、外観はほとんど明治時代に建てた当時のまま。一時は建物の存在が唐戸開発のジャマになると論議を呼んだこともあったが、今では逆にこの由緒ある建物こそ唐戸に欠かせぬものだと、保存の方針が打出されている。

前方の海は埋立てられて国道になるなど、領事館の周辺は激変した。この中にあって、色あせ赤茶けたレンガだけがその移りかわりを静観、歴史の重みを伝えてきた。

唐戸の大がかりな再開発が始動しかけているが、おそらく十年がかりの大事業が終わって唐戸が驚くばかりの変貌をとげたとしても、この赤レンガの洋館だけは、今のままの形で静かに在ることだろう。そこにこの建物の大きな価値を改めて思いしらされる気がするのである。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)(彦島のけしきより)



参考

① ドイツ領事館も下関にあった(参考)



② アーネスト・サトウと旧下関英国領事館(参考)