旧下関商工会議所、下関市田中町 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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商工会議所 商都下関への愛着

田中町にある下関商工会議所、ロダーン美容室の二つの建物は、一見してそれとわかる戦前の建物である。ここは昔、西之端通りと呼ばれ、古き良き時代の下関の一つの顔でもあった。

現在、例えばシーモール下関のように、商業中心勢力が西部、つまり駅周辺に集中しつつあるのに、商工会議所が昔の姿のままがんとして「東」を動こうとしないのは、関の商人が昔の繁栄を忘れたくないという意地なのかもしれない。

商工会議所の前身、赤間関商法会議所が開設されたのは明治十三年。市制施行より役十年早く、全国でも東京、大阪に次ぐ古い歴史をもっている。事務所は東南部、西南部、観音崎と転々としたが、明治二十八年、現在地に総工費三千四百余円をかけて新屋舎を建造した。木造であったが、大正九年までの約二十年間ここで執務が続けられた。

この間、下関は海外貿易、遠近海漁業、銀行、会社、工場と、ありとあらゆる産業が発展していった。これと歩調を合わせるように、会議所の役割もきくなっていったのである。大正九年、当時としては例をみない総工費二十二万円をかけた鉄筋コンクリート三階建てがお目見えした。まさに繁栄下関の象徴であった。

第二次大戦中、何度か米軍の攻撃で焼けそうになったこともあるが、兵隊が駐屯していて消火作業に当るなどで、何とか戦火をまぬがれて現在に至っている。天井の高さはいまも訪れる人を驚かせるが、建物自体にに老朽化が目立ち始めている。関の商人の愛着は以前にも増して強くなろうというものだ。

下関の商店街はこのところすっかり夜が早くなってしまったが、昭和十四年、中部幾次郎会頭時代に「本邦対大陸交通の要衝たる下関駅は時局の進展とともに益々旅客の殺到を来たし、殊に日満支経済提携により彼我の修交益々滋く之に伴う内外顕官知名士の往来絶へず 」の書き出しで、厚生大臣や県知事に閉店時間繰延べ特別地域指定を陳情している。それによると、東京行最終列車の発車する午後十一時まで街は賑わうのに、商店法のため十時で閉店しなければならない。特別に深夜営業を認めてほしいというものだ。とても今では信じられないようなお話しである。

商工会議所の隣りは戦前、貝島クラブといい、シャレた事務所だった。貝島炭砿華やかなりし時代の従業員慰安所の性格をもち、紳士、淑女が出入りしていたという。そのレンガ造りの建物は、いまは美容院になっている。経営者の三浦教子さんは「ここが由緒ある建物ということは知っています。貝島クラブ時代のこともうっすらと覚えてますね。大切に使ってゆきたいと、いつも思ってるんですよ」と話してくれた。

そもそも、このレンガ造りの洋館は明治 年代に藤原義江の父リード(貿易商)が建てたものだともいわれている。以後、貝島炭砿が第二次大戦が始まる前まで使い、戦時中は空家、戦後、日本生命下関支社、資生堂と主が代わり、いまのロダーン美容室が営業を開始したのは四十五年のことだった。

海峡の町有情 下関手さぐり日記より


参考

① 旧商工会議所跡地

下関市田中町4-12    現況は駐車場


② 現在の下関商工会議所

下関市南部町21−19