三菱重工業下関造船所 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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三菱造船 漁船専門で有名に

江の浦は、大正三年に三菱造船所ができるまでは、まことにさびしい村だった。もちろん、三菱が今日の賑わいのすべての因をつくったというわけではないが、三菱造船が今の江の浦、さらには彦島全島の発展に果たした役割はかなりのものだったと言える。

もっと時代をさかのぼれば、繁栄の基礎は、下関の歩みがそうであったように、ここもまた大がかりな海岸埋立てに原因する。明治二十八年、八万九千平方メートルにわたる広大な埋立地が誕生したのである。

三菱造船が江の浦で営業開始した大正三年十二月はまだ三菱合資会社時代。第一次大戦初期のころで海運界は未曽有の好況時。拡張に次ぐ拡張で、大正十年三菱合資から独立、長崎、神戸の姉妹工場とともに造船界の最高権威として信頼を得た。

前面には巌流島が横たわり、自然の防波堤となった。島とドックの間の海面には浮標を沈設、港内はいつも波穏やかで、海底は常にしゅんせつされているなど、まさに天恵人為備わった絶好の係船場ともなっていた。

下関港は内外海運の要衝の地でもあり、多くの船舶が集中、おのずから船舶修理の数も多く、下関、戸畑といった当時の二大漁港を近くにひかえ、特に遠洋漁船の建造、改造、修理では名を売った。わが国における唯一の漁船専門工場として「漁船は彦島」と、広く知れわたっていたほどだという。この造船所で生まれた漁船は日本海、朝鮮沿海、東シナ海はもとより、太平洋、北海道方面から遠くは南洋方面で活躍、わが国水産界に大きな貢献を果たした。昭和五年には大日本水産会総裁から功徳表彰証も受けている。

この三菱下関で終戦直後の昭和二十年十一月、まる五日間にわたって県下で初めてのストライキがあった。同造船所に八月十五日付で本店から軍の機密兵器などはすぐに処分せよとの通達があり、これを受けて特殊潜航艇がその夜のうちに処分され、軍関係の設計図なども焼却された。徴用工らも即日徴用解除になったが、従業員の中には前途への不安から会社を去る者があい次ぎ、占領軍の財閥解体政策が押しつけられた。

一方では組合運動も始まるなど、大きな変革期に直面したときだった。三菱関係で、組合組織のトップを切ったのが下関造船所だった。十一項目にわたる当時としては激しい要求が会社に手渡され、交渉決裂、ストに突入したもので、まる五日のストのあと、組合側に有利な条件で妥結したのである。

一方、三菱造船などの所有地となっている巌流島は、昭和の初めごろまでは自然公園さながらの島で、老松蒼然とし、酉側の湾にいたる原っぱはハマユウ、ハマナス、ボウフ、スカンポと四季の花が咲き乱れ、ちょっとした花畠。ホンムシやアサリ、コエビなども手当り次第で、海鳥の森でもあった。その風光の美が、武蔵·小次郎の決闘の場とともに広く知られていたこの島だったが、潮流の浸食もあって年々小さくなり、今は小次郎の碑が、悲しく哀れげに守っているだけとなった。

昭和八年、敷地面積五万九千四百平方メートルだった三菱造船所は埋立てなどによって、現在工場敷地面積を二十四万五千平方メートルにまで拡張している。企業の発展充実と巌流島の荒廃…。

下関市民としては複雑な心境であるが、巌流島を今一度よみがえらせるのは、決して不可能なことではない。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)(彦島のけしきより)


彦島ものがたり


三菱合資彦島造船所(下関市 大正3年)

下関造船所の前身である三菱合資会社彦島造船所は大正3年12月1日に開所した。彦島造船所は船舶の修繕を主な業務として始まったが、数年のうちに特殊船舶や作業船の建造に特色を発揮した。


(保存版「ふるさと下関」より)(彦島のけしきより)



参考

① 三菱重工業(株)下関造船所

江の浦工場正門

北: 東大和町工場、南: 江の浦工場


② 三菱造船の今昔

1920年

1930年

1950年

1963年

1975年

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