下関築港騒動 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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下関築港騒動

下関は何といっても港である。ところが、長い間いわゆる出船千艘入船千艘の帆船だけによる繁栄だったが、明治になってから次第に汽船が入って来はじめた。そこで昔のままでいいのだという考え方と、変えなければという考えは真正面からぶつかった。海岸が不整形で浅く不便なことはわかっていたのだが。


下関築港騒動

明治二七年八月竹崎、豊前田、細江の前面海岸の埋め立てを行うとともに市は「馬関築港計画」を立てた。何しろ大きい仕事であり、市がやるか国がやるか、さては民間でやるかともめたが、大陸の風雲が急を告げ、とりやめということになった。


下関築港騒動

明治三四年三月山陽鉄道の埋め立ては完成し、さらに鉄道が通じ、関釜も動きはじめた。

そこではじめて「下関港修築に関する方針の決定」(明治四二年)を見ることとなり、内務省は関門海峡改良工事を内務省下関土木出張所の手にょって行うこととした。この工事は昭和三年に完成した。


下関築港騒動

ところがこの工事の途中、すなわち明治四三年一〇月第八代下関市長に就任した小林重威から「下関港修築計画」が出され、これを巡っての抗争がひどくなり、流血のこともあった。 このため山口県知事はついに「予戒令」を出すに至った。

下関にとってはまことに不幸な騒動であった。


下関築港騒動

大正二年市会の選挙があった。これも賛否両派に分れていた。さらに佐々木照山の世論喚起も大いに市民を動揺させた。

佐々木照山は蒙古王といわれ、国士をもって自ら任じていた。竹崎町で「六連報」という新聞を出していた。豊前田町の福仙寺で反対演説会をやった時など、私服刑事が衣服に印をつけて歩いた。


下関築港騒動

「下関築港騒動」と呼ばれるほどのことをして得をしたのは誰か、佐々木照山が政治家として足場を中央に延ばしたこと。損をしたのは大型船の寄港が門司側になったことである。

このようにして「下関港修築工事」について市会の議決を得、大正一〇年一一月三日起工し、昭和五年三月一六日に完成をとげたのである。


(写真集 明治大正昭和 下関より)(彦島のけしきより)


参考

現在の彦島大橋の西側を大規模に埋め立てて大型船の寄港地にする計画があった