戦前の赤間神宮と先帝祭、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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赤間宮で憩う人たち (昭和20年の空襲で焼失する前)

わずか8歳で壇ノ浦で入水した安徳天皇を記るため、赤間関紅石山麗阿弥陀寺境内に奉葬。明治に阿弥陀持を廃し赤間宮となる。 毎年5月2日から3日間、安徳天皇を偲んで先帝祭が行われる。


安徳天皇の御霊を迎えに行く赤間宮の神官たち

先帝祭の中で執り行われる「御神幸祭」は、安徳天皇が引き上げられた場所(御旅所)まで御霊を迎えに行き、タ方から「遷御祭」を行うという神事。 お盆に行われる“迎え火”と似たような流れだ。


約3キロにおよぶ上臈の道中 (昭和20年の空襲で焼失する前の街並み)

上臈の道中は、十二単衣に打ち掛けを着けた太夫に、官女、稚児ら150人を従え、伊崎町を出発。約3キロ離れた赤間神宮まで道中する。外側に大きく足を踏み出す独特の歩き方、外八文字を披露すると、 観客らから喝采が起こる。


上臈道中の衣装をまとった太夫たち (竹下内閣のふるさと創生予算で衣装が新調されている)

先帝祭最大の見所は、豪華絢爆な十二単で身を包んだ太夫たちによる、“上臈(ろう)参拝”の道中。絵はがきの被写体としても、かなりの種類が発行された。


今でも手を合わせる人が絶えない御裳川最下流 (右手の漁村は、明治期の砲台設置のため、現在の壇之浦漁港の場所に移転した)

末期の水を求めて海岸にたどり着いた平家の武将が喉を潤した清水は、2杯目からただの海水になった…。耳なし芳一伝説、平家蟹…この風景の頃には、平家の悲しい伝説が生きていた。

(平原健二コレクション関門浪漫よ療養)(彦島のけしきより)