八幡駅前の都市計画、北九州市八幡東区 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

① 八幡駅前

八幡駅前


② 八幡駅前から皿倉山ケーブルカーまでの今昔

1950年(昭和25年)

1963年(昭和38年)

1975年(昭和50年)

現在


参考


旧八幡市の名物市長は初代公選市長守田道隆
 
東京市吏員だった頃、昭和四年、当時の八幡市長図師兼弐の招聘により八幡市土木課長となる。当時の一番の功績は黒崎駅を中心とした黒崎再開発。今の黒崎を形作りました。その後長野県道路課長を経て、日本製鐵(八幡製鐵所)に入社、土木部長から工務部長。
 
初代公選市長として八幡駅移動及び駅前再開発。八幡方式として知られる都市型公民館等々、色々ありますが、道路を作る名人、4つの南北を繋ぐ通りに中央植樹帯を作りました。

一つは新しい八幡駅前からロータリーの道、その隣国道三号西本町から祇園への道(今は桜通りと呼ばれているあの道)、桃園の製鐵アパート横の道、最後は尾倉から皿倉登山口入り口を繋ぐ道(吉川工業や黒木のラーメンがあった道)
 
 なにが凄いかと言えば、八幡駅前はカナリーヤシ(現存)、桜通り入り口はブラジルヤシ(残念ながら光ファイバー設置の為撤去)、桃園はワシントンヤシ(車線を増やす為二本撤去)、最後の尾倉は「(製鐵)南門帆柱線」と言うらしいのですが、写りの悪い写真によるとドラセナ風の物がずっと植えられています。

四つの大きな通りを全部洋風にまとめるって、さすが戦後まもなくの鐵都八幡の市長、洒落ています。