味の素、鈴木商店 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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ホーロー看板(彦島のけしきより)


参考

味の素(wikiより)

明治41年(1908年)、東京帝国大学池田菊苗グルタミン酸を主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許が認められた。

鈴木三郎助(2代)は知己を通じて開発中から池田博士と面談しており、この特許の実施契約を得た。葉山の工場は前年設立の日本化学工業へ合流させず、合資会社鈴木製薬所として独立運営させていたが、ここをこの調味料の工業化にあてることにした。そこで弟の忠治を帝国肥料株式会社から呼び戻して研究を指揮させ、また長男の三郎(後に3代三郎助を襲名)を営業にあたらせた。さっそく明治42年(1909年)から「味の素」という名で販売を開始したが、最初は全く売れなかった。実際その当時はまだまだ不純物も多く、色や匂いも良いとは言えなかった。

しかも明治44年(1911年)には湘南一帯を暴風雨が襲い、葉山や逗子の工場は壊滅的打撃を受けてしまう。味の素の製法は小麦タンパク質塩酸で分解するというもので、塩酸の臭気や、廃棄される多量のデンプンに対する周囲の苦情も多くなり、川崎の六郷川(多摩川)沿いへ新工場を造り移転することになった。

工場は大正3年(1914年)に竣工したものの、臭気の強い塩酸から硫酸に切り替えようとしてこれに失敗し、改めて塩酸による製造が始まったのは翌年という状況だった。第一次世界大戦による原料高騰もあって経営は逼迫しており、ヨウ化カリウム塩化カリウム、塩素酸カリウムといった扱い慣れた化合物を製造することでなんとかこれを補うという状況だった。

小麦からタンパク質を得る過程で、大量のデンプンが副産物として生じるため、これを何かに利用できれば全体のコストを抑えることができる。当時の紡績工場では、小麦粉を購入して水にさらし1ヶ月以上かけてタンパク質を取り除き、残ったデンプンを糊として綿布に塗っていた。

そこで鐘淵紡績に提携を持ちかけたところ、鐘紡社長の武藤山治は逆に鐘紡で廃棄するタンパク質を提供すると提案してきた。ところが小麦中のタンパク質はデンプンと比べて少量しかないため、それまで洗い捨てていた水からタンパク質を回収するのは非常に効率が悪い。鈴木は一旦この逆提案を受けておき、継続的に自社製の高品質なデンプンを送って鐘紡の技師たちに検討させた。結局、タンパク質を回収しても鐘紡の利益にはならず、質も味の素デンプンが優れているということになり、紆余曲折の末に鐘紡は味の素デンプンの大顧客となった。これによって味の素の採算は著しく改善した。大正6年(1917年)には株式会社鈴木商店を設立し、鈴木三郎助が社長に就任している。

この頃「味の素の原料はである」という風説が流行した。薬売りの口上が元だとされているが、その流布に多大な影響を与えたのは反骨的なジャーナリスト宮武外骨である。外骨は大正7年に雑誌『スコブル』に鈴木商店の名を騙った偽広告を掲載し、ついで大正8年(1919年)には、雑誌『赤』には風刺画を掲載、大正10年(1921年)には雑誌『一癖随筆』に記事を載せている。これにより味の素の売り上げは一時激減したという。しかし新聞各紙に広告を載せて対抗したことで、逆にこの騒動が味の素の知名度を上げることになり、1日あたり1万円近い純利益をあげるまでになった。

特許権は大正12年(1923年)7月で切れるはずであったが、政界に働きかけて6カ年の延長が認められることになった。明治42年の特許法で存続期間の延長制度が創設されており、その年に御木本幸吉による真珠養殖の特許(第2670号、明治29年)が延長されたことに倣ったものである。このとき発明者の池田は延長に反対であったが、鈴木三郎助が直接泣き落として了解させたという逸話が伝わっている。

1946年(昭和21年)2月 - 味の素株式会社に社名変更。