日頼寺と仲哀天皇陵
長府松原のパス停から山手へ五分ばかり歩いた突きあたりに禅宗の日頼寺がある。
日頼寺は長府藩主初代秀元が萩本藩毛利元就の菩提を弔うため建てたもので、元就の法号にちなんで日頼寺と称したが、秀元が祖父にあたる元就をたいへん尊敬していたことが察せられる。
当時、寺には元就の使用した頭巾や愛用の印籠が寺宝にされていたといわれ、また仲哀天皇聖地輪旨や足利尊氏、大内義隆、毛利元就、元清(秀元の父)、秀元らの古文書も寺宝として残されている。
このように格式の高い寺であったが、明治新政府の神仏分離令により菩提所が廃止、寺領も召上げられることになり、住職に対しても還俗して、新たに忌宮神社の神職になるよう沙汰があったが、時の住職は頑として拒否し終身立派に僧職を全うされ、それ以後現在の原田住職に至るまで、連綿として法灯を守り続けて来られたのである。
境内にはモクセイ、モミジ、イチョウ、サザンカ、サクラの木が多く四季をいろどって美しい。
また長府藩家老や学者三輪東皐の墓もある。
日頼寺の山門を入って右側のくずれかかった古い石段をのぼっていくと、仲哀天皇の御殯斂地(ごひんれんち)がある。殯斂地とは御仮埋葬所のことでありこの日頼寺のほか華山の頂上にもあるが、正式の御陵は大阪府藤井寺市にある。
仲哀天皇は豊浦宮を根拠地として、神功皇后、武内宿禰らとともに九州の熊襲征伐に向かわれたとき、香椎宮でにわかに病に倒れ亡くなられたのである。
訪れる人とてない静かな森のなかに、落葉に埋もれ眠っている円形御陵の前にたたずむと、はるかな遠い昔のことが、重い記憶の底からまぼろしのようによみがえって、薄暗い木立ちの中をかすかによぎって行くのであった。
(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)
注: 豊浦宮は考古学上は新下関駅のある秋根地区と考えられる。
参考