参考
厳島さんと桜山招魂社(上)
妙蓮寺の山門を出て左へ行けば大通りに出るが、そこに石の鳥居が建っている。道路を隔てた正面は厳島神社。石段を少し登ると右手に句碑がある。作者名はなく建立は明治時代となっているが、その刻字は残念ながら読めない。「草の名は」に始まって「初野菊」あるいは「晴野菊」で終わるような気がするのだが、読めなければよけいにイライラすると、ぶらたん氏の弁。
さらに石段を登ってゆくと境内の中央に大きな太鼓堂が建っている。そばには台石も含めれば三メートル以上もある大石柱に公爵山県伊三郎の撰になる太鼓の由来文が刻まれているが、楼の中にもやさしい説明板があってこれは親切で良い。せっかくだから読んでみよう。
ここに安置してある大太鼓は、小倉城の櫓太鼓であったものを、慶応三年、当時の奇兵隊長高杉東行晋作が藩主に謝罪せしめた折、戦利品として得たものを、当時、萩毛利忠正公の領土たりし新地浦の守護神、厳島神社に奉納せる由緒あるものであります。この太鼓はケヤキ材のくり抜きで、直径三尺六寸、重さ九十貫もある天下の一品であります。
小倉城は戦後、鉄筋コンクリートで復元され、天守閣の最上部には大きな太鼓も据えられているが、小倉戦争から百何年も経過した今日でも小倉人にとっては小笠原藩の大太鼓が長州下関にあるという事実が我慢できないらしい。だから時折、厳島神社の太鼓を返せ、とか、東行庵の石燈篭を返せ、などと執念深く迫ってくる訳である。
しかし長州人にとっては、はいそうですか、と素直に返せるシロモノではない。先人が維新革命を成し遂げた際の貴重な遺産であってみれば、これは単なる戦利品ではないことがはっきりする。北方領土の問題と同一視する訳にはゆかないのだ。
さて、拝殿の裏手は児童公園になっているが、その片隅に藤棚などがあって、そこにも小さな句碑がある。御多分に洩れずここもまた達筆で書かれているため、なかなか読みづらい。しかし表参道の「草の名」の句碑の仇を、この辺りで討たねばなるまい。ぶらたん氏、紅葉稲荷の句碑と歌碑同様に、何度も足を運んでようやく判読したという。
春もやや けしきととのふ 月と梅 ばせを
驚いた。こんなところにも芭蕉の句碑がひっそり建っていたのである。「山口県近代文学年表」という本の巻末には県内の文学碑をことごとく拾い集めて列記してあるが、紅葉稲荷の「月代や」と、ここの「春もやや」の二つの芭蕉句碑は載っていない。
(冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」 昭和51年 赤間関書房)(彦島のけしきより)
厳島さんと桜山招魂社(下)
児童公園の石段を下って右へ行けば山陽本線のガードをくぐり高杉晋作の療養地跡に行くことができるが、もし時間があるならば、桜山招魂社を先に訪ねよう。
厳島神社参道脇の信号まで戻って国道191号線にそい西へ行くことになるが、車の多い国道を避けたければ、すぐ先のガソリンスタンドのそばを右折すればよい。
約二メートルの小道が続いて桜山小学校の前に出る。右手は山陽本線だ、学校と線路の間の道をしばらく行くと左手にこんもり繁った森がある。「桜山招魂社」し書かれた石柱が建っていて、鳥居には扁額がない。
そこから長い石段が鬱蒼とした樹林に包まれて暗いたたずまいで登る。十五段ばかり登ると大きな椎木が天をついて聳え立っている。市の環境保全条例により「保存樹木」に指定されていることはいうまでもない。
招魂場はそこからさらに百段近くも登らねばならないが、この参道の桜並木は実に見事である。登りきった台地の正面に拝殿があり、その前に明治天皇勅宣碑というのが建っている。
拝殿の裏手に回ってみると石の鳥居が建っていて、鉄門扉に閉じられた霊標群が祀られている。明治維新の大事業のために散った三百七十余柱の霊を慰めるもので、中央に吉田松陰、両側に高杉晋作、久坂玄瑞という松蔭門下の双璧が並んでいる。後列には苗字を持たない小者の名前もあるが、ここに霊標が建てられた志士はまだましだと言えるかもしれない。小倉や越後、東北あたりで倒れたものも多く、また生死さえも判らぬまま葬れさられた人もあったことだろう。
もともとこの招魂場を作ったのは高杉晋作だが、彼は常に自分より先に死んでいった者のことを想い続けて、
おくれても おくれてもまた 君たちに
誓いしことを 吾忘れめや
とむらわる 人に入るべき 身なりしに
とむらう人と なるぞはずかし
などと歌っている。いかに国のためだとはいえ自分の作戦や命令により死んだ者に対して、限りない愛惜の念を抱き続けて高杉は悶々とした夜を過ごしたふしがある。「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評されて豪放磊落な高杉というイメージの陰には、このような人情味厚い一面も隠されていた訳である。
さて、石段を下って桜山小学校に沿いながら国道に出ると信号のそばに「明治維新殉国の士を祀る桜山神社」の大標柱が建っている。つまり桜山招魂社はここが表坂という訳である。
(冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」 昭和51年 赤間関書房)(彦島のけしきより)