台湾と下関 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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台湾と日本のつながりと言えば、台湾バナナ、砂糖を真っ先に思い出す。下関では、直ぐにお隣の北九州市門司区の「バナナの叩き売り」と製糖工場が有名である。関門港が台湾に近い国際航路であったことに由来している。

製糖工場について門司区の関門製糖と言う会社が現在操業しているが、そのルーツが台湾の砂糖きびを原料とした大里製糖所であったが、もう一つがスズラン印の砂糖を作っていた日本甜菜製糖の下関工場であった。


参考

① バナナや紅茶の台湾産業が日本で発展したワケ

東洋経済(2019.10.5、参考)

「東京人」編集部

台湾工場甘蕉鐡道運送、戦前の製糖工場のシュガートレイン(写真:『写真帖 大日本製糖株式会社』より)

台湾へ渡った新渡戸稲造は、半年かけて全島を巡り、殖産興業の要は製糖業にあると確信したという。台湾バナナやパイナップル、サトウキビ栽培と砂糖製造、そして今日の化粧品原料生産へとつながった樟脳(しょうのう)など。統治時代から台湾とゆかりが深かった産業の歴史と今を紹介する。

台湾におけるサトウキビ栽培と砂糖製造の起源

たとえば、1日の朝をこんなふうに始めることはないだろうか。砂糖を入れた甘い紅茶を飲み、朝食代わりにバナナを食べ、手早くメイクをして仕事に出かける――。ありふれた光景だが、私たちの身近にあるこれらのモノをたどってみると、台湾と日本を結ぶ長い関係が見えてくる。

数年前、台湾中部の雲林県虎尾鎮(フーフェイ)を訪れたことがある。かつて虎尾が「糖都」と呼ばれたのは、明治42年に「大日本製糖」(明治28年、渋沢栄一が設立した「日本精製糖」が前身)工場が操業を開始したことにさかのぼる。当時の豪壮な施設が現存し、現在は「台糖公司虎尾糖廠」として操業中だ。サトウキビの収穫期にはシュガートレインが走り、観光客も多くやって来るという。虎尾の街全体に甘い香りが漂っているようだった。

台湾におけるサトウキビ栽培と砂糖製造の起源ははっきりしないが、15世紀から本格化した漢民族の移住によるとされる。オランダ統治時代、鄭(テイ)氏政権時代、清朝統治時代を通じて、砂糖は日本を含むアジア市場を中心とした有力な貿易品であった。東インド会社や中国商人などが貿易を担ったが、規模は小さく、飛躍的に発展するのは、日本が台湾を領有した明治28年以降のことになる。

第4代台湾総督児玉源太郎は、それまでの治世方針を転換(「討伐」から「統治」へ)し、彼が抜擢したのが、明治31年に民政長官(当初は民政局長)に就任した後藤新平である。在任中に台湾の近代化を推進し、産業の育成と発展を奨励した。

新渡戸稲造(1862~1933年)農学博士、法学博士。教育家、学者。39歳で台湾総督府の技師として赴任。稲造が提出した「糖業改良意見書」をもとに台湾糖業の振興が進み、台湾財政の確立に大きく貢献した(写真:国立国会図書館)

後藤は着任間もなく、三井財閥系など財界有力者を説得し、「台湾製糖」の設立(明治33年設立。35年、台南にて操業開始)を導いた。また、明治34年、同郷の新渡戸稲造(農学研究者、思想家)を招聘する。殖産局長に就任した新渡戸はジャワ糖業の視察に赴き、さらに台湾島内を踏査した結果を「糖業改良意見書」にまとめ、サトウキビの品種改良・製造・市場についての具体的方策を説いた。

これを受け入れた台湾総督府は、「台湾糖業奨励規則」(明治35年)を発布。苗や肥料の費用、開墾や灌漑にかかわる諸費用、精糖機械などの費用に対し、「奨励金」が下付され、製糖会社設立の機運が高まった。

明治37年から39年にかけて、台南塩水(イエンシュイ)港庁(当時)に、「鹽水(えんすい)港製糖」(現「塩水港精糖」)と「明治製糖」(現「大日本明治製糖」)が相次いで設立され、さらに先述の「大日本製糖」(平成8年「明治製糖」と合併)が台湾に進出するなどした。このほか、明治末までに「新興製糖」「新高製糖」「帝国製糖」などが設立され、内地資本の進出が加速していった。

サトウキビの作付面積と改良種の割合の推移を見てみる(「甲」は台湾の伝統的面積単位。1甲=ほぼ1ヘクタール)。

明治35〜36年
   1万6526甲(改良種0.2パーセント)

明治43〜44年
  8万9445甲(改良種93.4パーセント) (台湾総督府殖産局『台湾糖業統計』)

作付面積に比例して収穫高も約4.6倍の伸びを示した。台湾から日本へ移出された品目を金額(明治44年)で見ると、1位は砂糖(約72パーセント)で、2位の米(約15パーセント)を大きく引き離している。このようにして日本の庶民も甘味を楽しめるようになった。初期に設立された製糖会社が今日も存続していることは特筆すべきことだろう。

新たな商品開発から生まれた、紅茶製造への取り組み

砂糖についで台湾の特産品として挙げられるのは、茶である。私もつい最近、阿里山に広がる茶畑の美しさに目を奪われたばかりだ。土産に買った紅茶は味わいが濃く、香りもすばらしい。そういえば、「日東紅茶」は台湾との縁が深い。

台湾の茶の歴史はふるく、野生の茶樹を焙製し、飲料にしていたとされる。さらに清朝統治時代に中国本土より移民した人たちが、茶栽培を台湾各地で広範囲に展開し、相当量が中国へ輸出されるようになった。また樟脳(しょうのう)(後述)調査のため台湾にやって来た英国人が茶に注目し、商社と製茶場を設立。1869(明治2)年に米国ニューヨークに輸出したのが、台湾茶の国際市場登場となる。

こののち中国人商人による台湾での茶園開拓が進み、包種茶(パオチョンチャー)(わずかに発酵させた釜炒り茶)なども生産されるようになる。明治36年、台湾総督府は製茶試験場を開設。主に烏龍茶の製造法の改良と、紅茶の試作についての研究を行った。紅茶を開発した理由は、植民地政策ともかかわる。台湾でも緑茶(日本茶)が生産されていたのだが、緑茶は日本の重要な輸出品であり、国際市場での競合を避けるためにも、新たな商品開発の必要があったからだ。

台湾の紅茶製造は、総督府殖産局の意向に沿って起業された日本資本の企業(「日本台湾茶株式会社」「台湾拓殖製茶」など)が取り組んだが、品質は安定しなかったとされる。総督府は大正7年度より「茶業奨励十年計画」を実施し、製茶機械の貸付や技術の向上、人材育成に取り組んだ。

紅茶製造が大きく推進されたのは、「三井合名会社」(明治42年設立)農林課による。植林事業などを展開する同社は、大正10年ごろに直営で製茶を開始し、やがて紅茶製造に乗り出した。昭和2年、日本初のブランド紅茶「三井紅茶」(のちに「日東紅茶」に改称)を発売。11年には三井合名会社農林課を発展的に分離独立させ、「日東拓殖農林株式会社」を設立する。

1930~40年頃の、台湾第2工場「大豹工場」の様子。(写真:三井農林株式会社)

同社が台湾で所有した茶園は2000甲、また先述の台湾拓殖製茶(茶園4500甲)の受託経営も行った(のちに吸収合併)。台北仕上工場のほか、8つの工場を持ち、日東紅茶として日本国内で消費されたほか、米・英そのほか諸外国に輸出された。海外にも市場を広げることができたのは、インドのアッサム種の増殖などをし、品質が高く評価されたからだ。

台湾における茶の種別輸出額では、烏龍茶・包種茶にはるか及ばなかった紅茶が、昭和9年になると、両種を大きく引き離し、トップとなった。13年には、東京日比谷に庭園式ティーハウス「日東コーナーハウス」を開店。モボ・モガが集まり、日本に紅茶文化というべきものが芽生えた。戦後に、社名は「三井農林株式会社」に復し、国内での販売を再開。現在まで、日本で最古の紅茶ブランドとして引き継がれている。

台湾の豊かな自然と、近代化学の出会いが生んだもの

さて最後に、台湾の樟脳が今日の化粧品原料生産へとつながったことを紹介したい。

明治7年、砂糖の輸入商として、鈴木岩治郎(初代)が神戸に創立したのが「鈴木商店」である。神戸の有力貿易商として発展していく中、19年に入店したのが金子直吉(当時20歳)である。鈴木商店は23年より樟脳の取り扱いを始め、金子を責任者にあてたのは、彼が土佐出身であることとかかわっている。

樟脳はクスノキを原料として製造されるもので、アラビアが起源とされる。6世紀ごろからヨーロッパで医薬・防虫剤としても使われた。16、7世紀ごろ日本に伝わり、薩摩藩の特産品として海外輸出もされた。さらに薩摩から土佐に伝わり、幕末には「土佐式製脳法」が生み出され、樟脳事業の振興が図られた。

樟脳の需要を大幅に拡大させたのが、1870(明治2)年、米国人が実用化に成功した樟脳を原料とする合成樹脂「セルロイド」だ。日本からの輸出品として樟脳が注目される中、金子直吉は神戸を中心に事業を展開していった。

明治27年、鈴木商店創業者が没し、金子直吉らが経営にあたることとなり、翌年(台湾を領有した年)には早くも「小松組」(神戸の樟脳業者らとの同業組織)を組織して台湾進出を果たす。金子はすでに樟脳油から得られる再製樟脳や樟脳副産油に着目し、販売権獲得を視野に入れていた。

後藤新平(1857~1929年)官僚、政治家。後藤新平の台湾での近代化政策は、「生物学の原則に従う」という考えにのっとり、台湾の慣習に基づいた施策を立てるというものだった(提供・国立国会図書館)

一方台湾では、明朝末から鄭氏政権時代に製脳業が伝わったと推定されている。台湾総督府は当初、製脳業を総督府の許可事業とし、新規参入を認めなかった。しかし、製脳技術者松田茂太郎(のちに鈴木商店〔明治35年、合名会社に改組〕に入社し、樟脳関連事業すべてに関与した)の提言を受け、明治32年に総督府は台湾樟脳専売制度を導入した。この時期に金子直吉は後藤新平との関係を深めていったとされる。

鈴木商店は、明治32年に台湾樟脳油の販売権の65パーセントを得て、その翌年「直営樟脳製造所」(神戸)を設立。製造業にも乗り出し、セルロイドや人絹など、事業の多角化を図り、大躍進していった。さらには薄荷(ハッカ)・塩・煙草事業にも参入、製糖会社を設立・買収するなどした。また第1次世界大戦勃発(大正3年)を機に、鉄鋼・造船など重化学工業にも進出した。大正6年の売上高は15億4000万円に達し、「三井物産」を大きく凌ぐほどの勢いを見せた。

鈴木商店は破綻したが…

しかし昭和2年、「昭和金融恐慌」が起こった。鈴木商店のメインバンクである台湾銀行との関係は樟脳ビジネスの展開から始まっており、同銀行の鈴木商店への融資総額は融資残高の5割を占めるほどだった。こうした融資の偏りが台湾銀行の存立を危うくさせ、ついに鈴木商店との絶縁を宣言。これにより鈴木商店は破綻に至った。

関係会社は売却・解散・整理などされたが、自主再建を果たした会社も少なくない。鈴木商店の流れを汲み、さらに発展していった企業は、商社「双日」、神戸製鋼所・帝人・太陽鉱工など、あまたにのぼる。

中でも台湾進出の突破口となった樟脳事業から発展した企業が「日本精化」と「日本香料薬品」である。前者は化粧品の原料など、後者は食品香料などを中心に生産している。その技術の源流をさかのぼれば、台湾の豊かな自然と、近代化学の出会いにあったといえるだろう。

台湾と日本。これからもよき関係を育んでいきたい。

(文/与那原恵)


② 門司港発祥「バナナの叩き売り」

北九州市門司区(参考)

バナナが日本に輸入されたのは明治36年頃で、当時、基隆(キールン)[台湾]の商人が神戸に持ち込んだのが始まりです。それが大量輸入されるようになったのは、明治41年以降で、終戦の4、5年前までです。その頃、台湾は日本の領土であったことと、門司港が産地台湾と最も地理的に近い関係もあって、大量荷揚げされ、市場が設けられたのでした。


(上の写真)昭和初期 (下の写真)平成28年


③ 「関門海峡は鈴木の王国」

双日ウエブサイト(参考)

元々洋糖を取り扱っていた鈴木商店は、国内で製糖事業を企て、水質がよく地の利もある北九州の大里に注目。明治36(1903)年、大里製糖所(現・関門製糖)を設立した。大里地区では良質な水を活かし、 明治44(1911)年に大里製粉所(現・日本製粉)、大正元(1912)年に帝国麦酒(現・サッポロビール)、大正3(1914)年に大里酒精製造所(現・ニッカウヰスキー)を次々と設立。さらには神戸製鋼所、日本冶金(現・東邦金属)なども設立した。

また関門海峡を挟んだ対岸の下関彦島地区においても、大正5(1916)年に亜鉛製煉工場である日本金属彦島製煉所(現・三井金属鉱業関連会社の彦島製錬)、大正7(1918)年に彦島坩堝(現・日新リフラテック)、大正11(1922)年に日本初のクロード法によるアンモニア製造工場であるクロード式窒素工業(後の東洋東圧工業、現下関三井化学)を設立している。

こうして鈴木商店は、関門海峡を隔てた両岸に一大工場群を建設。「関門海峡は鈴木の王国」と呼ばれた。当時建設された煉瓦造りの建物は、現在でも大里、彦島地区のあちこちで見ることができ、一部は現役の工場として稼働している。

関門製糖(旧大里製糖所)


④ 鈴木商店の飛躍は製糖事業から

鈴木商店記念館(参考)

北九州、台湾において製糖事業を展開

鈴木商店の製糖事業は、九州大里から始まった。当初、金子直吉は、台湾民政長官・後藤新平との関係から台湾の基隆に台湾随一の国策会社で三井系の「台湾製糖」に匹敵する製糖工場を建設しようと計画した。後藤が鈴木との関係を議会で問題視されたため、台湾における製糖事業を断念し、代わって大里の水質が製糖に適することから小倉に近い大里に我が国初の臨海工場を建設することになった。その後、鈴木商店は台湾においても製糖事業を展開していく。

◇大里製糖所(現・大日本明治製糖を経て関門製糖)

設立   明治36(1903)年
所在地  大里(現・北九州市門司区)

大里製糖所は、鈴木商店が樟脳事業に次いで本格的に生産部門に進出し多角化に進む契機となった事業である。鈴木商店と大阪辰巳屋(藤田助七)の共同出資により船出した大里製糖所は、試行錯誤を重ねた末、ようやく良質の砂糖の製造に漕ぎつけ、大里の砂糖は全国に普及し始めた。大里製糖所の躍進に脅威を感じた先発の日本精糖(大阪)と日本精製糖(東京)の2社は合併して「大日本製糖」を設立して対抗しようとするも、大里の勢いは衰えず、大日本製糖は大里との合併を申し入れてきた。

鈴木商店・金子直吉は、合併に応じない代わりに、買収に応じることとし、明治40(1907)年に大里製糖所を大日本製糖に650万円にて売却、見返りに一手販売権を取得した。こうして得た売却資金がその後の鈴木商店の発展の大きな原動力となった。

一方の大日本製糖は、その後も鈴木系製糖会社を始め多くの製糖会社との合併を経て現・大日本明治製糖として今日に至る。なお、旧大里製糖所のレンガ造りの工場では、大日本明治製糖(三菱系)と日本甜菜製糖の合弁会社「関門製糖」が両社の受託を受けて現在も砂糖製造を行っている。

◇東洋製糖(現・大日本明治製糖)
       買収       大正3(1914)年
       所在地 台湾 
◇斗六製糖(東洋製糖を経て現・大日本明治製糖)
        設立  大正元(1912)年
        所在地 台湾
◇北港製糖(東洋製糖を経て現・大日本明治製糖)
         設立       明治43(1910)年
         所在地    台湾
◇塩水港製糖(現・塩水港精糖)
         出資  明治40(1907)年
         所在地 台湾・台南県
◇南洋製糖
         買収  大正4(1915)年
         所在地 東京(工場はジャワ)

東洋製糖は、明治40(1907)年設立され、台湾銀行元副頭取・下坂藤太郎(後の日商初代社長)が社長の時代に台湾での製糖事業に乗り出した。折しも台湾での製糖事業を計画した鈴木商店は、大正3(1914)年に斗六製糖、大正4(1915)年に北港製糖と東洋製糖との合併を進め、台湾島内に6工場を有する台湾第二位の製糖会社を誕生させた。鈴木系となった東洋製糖の一手販売権を得た鈴木商店は、台湾糖業界で確固たる地位を築いた。東洋製糖は、さらに大東諸島で製糖工場を経営していた玉置商会の事業を引き継ぎ、南大東島で製糖事業、北大東島・沖大東島で燐鉱事業を展開するも、鈴木破綻により大日本製糖と合併する。

塩水港製糖は、明治40(1907)年、台湾現地資本による旧・塩水港製糖会社を継承して株式会社として設立、台湾島内に7工場を稼働した。鈴木商店は、創業時より資本参加し、ピーク時には筆頭株主として関係強化を図った。鈴木破綻により、主力工場(旗尾、恒春)は台湾製糖に移譲された。第二次世界大戦後、塩水港製糖の内地資産を継承して昭和25(1950)年、塩水港倉庫が設立され、まもなく商号変更されて新生・塩水港精糖が誕生した。