遣隋使・遣唐使の派遣があった頃、大勢の渡来人がやって来て日本列島を開拓した! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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遣隋使・遣唐使の派遣があった頃、すなわち、飛鳥時代から藤原京、平城京、そして平安京と都を急拡大させていた時代があった。

この当時、首都だけでなく日本列島全体が多くの渡来人で急速に人口を増やしており、総人口で約7倍くらい増加している。これは在来の人口に対して6倍の渡来人がやって来たことを示唆している。当時は気候条件が良くなく、自然増では無かった。

渡来人たちは自分達の力で、例えば土木工事技術で田畑を開墾し、水田の為の溜池造成工事を行なったり、後世の人では考えられないような高規格の官道を全国規模で作っていた。渡来人達は、白村江の戦いに負けたり、また気候条件の悪化などを含む諸事情で中国大陸を見捨てたのだろうが、まだまだ条件のましな日本列島にやって来て、自ら日本列島のインフラ開発を行って自力で定着したことになる。


参考


中国四国農政局(参考)

香川県高松市にある屋島(やしま)といえば源平の戦いで知られていますが、この地に「屋島城(やしまのき)」と呼ばれる古代の要塞(ようさい)があったことはあまり知られていません。

大化の改新により律令国家を創りあげ国力の充実していた大和朝廷は、唐・新羅(しらぎ)の連合軍に滅ぼされた百済(くだら)を救済するため、662年、2万7千人という大軍を朝鮮半島に派遣します。しかし、白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗を喫し、その5年後には友好国であった高句麗(こうくり)も滅ぼされ、半島は新羅によって統一されます。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は即位して天智(てんち)天皇となりますが、九州大宰府に水城(みずき)、瀬戸内海沿岸に20数ヶ所の山城(やまじろ)を築いて、都をそれまでに摂津京(せっつきょう)(大阪)から、大津宮(おおつのみや)(大津市)に移して、唐・新羅軍の襲来に備えました。その山城の中で、最も都に近く、いわば最後の砦として築かれたのが屋島城でした。

天智天皇が恐れた新羅からの報復はなかったのですが、この時、日本は百済からの大量の亡命者を受け入れました。彼らの中には仏教や土木技術、薬学の長じたものも多数おり、おそらくは当時、全国的な規模で行なわれた開発(条里制(じょうりせい)の施行)にも先進技術者として各地に派遣させたのでしょう。

中国では春秋戦国時代(紀元前8~3世紀)、すでに巨大なため池が造られたことが記録に残っています。これらの技術はほとんど僧侶によってもたらされました。聖徳太子が仏教の振興に熱心だったのは、学問の輸入とあわせて、こうした僧侶がもたらす土木技術による民の救済が目的だったのかもしれません(太子自身、精力的な土木家でした)。

日本初の大僧正(だいそうじょう)となった行基(ぎょうき)もまた百済系渡来人の子孫とされています。行基は多くの土木工事をなし、狭山池(さやまいけ)(大阪府狭山市)も朝鮮式の高度な技術を使って改修しています。讃岐国(さぬきのくに)にも行基が開いたとされる寺が多くあります。

満濃池(まんのういけ)もこの時代に造られています。大宝年間(701~704年)、讃岐の国司である道守朝臣(みちもりあそん)によって造られたと『萬農池後碑文(まんのういけのちのひぶみ)』にあります(この道守朝臣という人物は『続日本紀』には出てこず、詳細は不明)。818年に決壊しましたが、その3年後、空海(くうかい)が改修したというのは有名な話です。

【写真】屋島

写真提供:(社)香川県観光協会


【写真】香川県内に残る条里制遺構(坂出市東部)

出典:『さぬきのため池誌』より

讃岐は大化の改新の頃、すでに17の寺院があり、奈良時代には30寺を超えています。いかに朝廷と密接な関係があったかを示しています。言うまでもなく、満濃池の改修を空海に命じたのは朝廷です。讃岐に古くからあった大きなため池は、ほとんど官費で造られたようです。

讃岐平野には、現在も大規模な条里制の跡が残っています。条里制はまず畿内(きない)で始まりましたが、讃岐も畿内と並ぶほど、いやそれ以上に開墾が進んだようです。

『和名抄(わみょうしょう)』(平安時代)には、讃岐の水田は18,674町と記されています。これは、現在の水田面積(29,500ヘクタール)の約63%。奈良の17,905ヘクタールさえ上回っています。当時の旧国の中でもトップクラスです。香川が日本一小さい県であることを考えると、この数値には驚かざるを得ません。

ともかくも、讃岐が古代から最も進んだ穀倉地帯であったことは間違いのない事実でしょう。


② 飛鳥~平安の古代駅路 一直線の謎に迫る 太田で29日に説明会

上毛新聞(2019.9.27、参考)

2本の側溝が東西にまっすぐ延びる発掘現場(市教委提供)

飛鳥~平安時代の道路遺構、推定東山道駅路(牛堀・矢ノ原ルート)について、群馬県の太田市教委は29日、同市新田溜池町の発掘現場で説明会を開く。

付近一帯の駅路は東西10キロにわたりほぼ一直線と考えられていた。今回、道の脇の側溝が200メートルまっすぐに掘り出されたことで裏付けが取れた。埋め戻すため、じかに見られるのは今だけだ。説明会は29日午前10時、同11時半、午後1時の3回。参加無料。申し込み不要。場所はポッカサッポロフード&ビバレッジ群馬工場の東隣


③ 遣隋使・遣唐使の派遣があった頃、多くの渡来人が日本にやって来た

また、日本の全人口について、奈良時代以前はおよそ80万人、奈良時代(725年~)はおよそ450万人、平安時代(794年~)はおよそ500~600万人と言われている。

この当時、気候条件は良くなく、極端な寒冷化と温暖化が襲っていた。人口の自然増加は難しかったと考えられる。また、この気象条件は中国大陸にも同時に及んでいたと考える。