我が家の苗字について | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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江戸時代まで百姓町人は苗字を持てなかったと言われている。私の地域(下関市大字福江)は農村地帯であり、旧士族の農家や旧庄屋(東日本の名主に相当)は苗字を持っていたが、その他大勢は公式には苗字を持てなかった。

しかし、実質的な苗字である門名を持っており、各々の家を区別していた。これは、つい最近まで高齢者には通用して、日常の非公式な場で呼ばれていた。

例えば、我が家は「宮ノ馬場(みやのばば)」、お隣は「御茶屋(おちゃや)」、その隣は「先馬場(さきばば)」であった。その他、「馬場(ばば)」、「新宅(しんたく)」、「鼻(はな)」、「古家(ふりや)」、「後屋敷(うしろやしき)」、「通門(とおりもん)」、「焼た(やけた)」、「上道(うえみち)」、「射場(いば)」、「的場(まとば)」、「やねどい」、「紺屋(こうや)」、「浜の醤油屋(はまのしょうゆや)」、「響屋(ひびきや、飲み屋の店の名)」、「三隅(みすま)」、、などを思い出した。各戸ともユニークに決まっており、間違うことはない。

明治になって新しく苗字をつけることになって、本家から分かれた分家各戸で重複・混乱を防ぐ為に、各戸異なった苗字をつけることになった。従って、私の一族は明治以前に分家していた為に、各戸異なる苗字となっている。

だから、数百年の由緒ある苗字と言うものは存在しない。また、現在同じ苗字を持った親類の家々は明治以降に分家したことになる。


雑談

公家の苗字は、ほとんどが「藤原」であり、各家は一条、二条、、、九条とか、何とか小路と場所で区別し、門名を名乗っていた。

また、武士の苗字も「源」や「平」ではなく、出身地名が多く、元は門名であったとも考えられる。


参考

① 実は農民も江戸時代から「苗字」を持っていたというこれだけの証拠

by 丸山学『自分のルーツ(祖先)を1000年たどる技術』

MAG2NEWS(参考)


「江戸時代には武士階級以外は苗字を持っていなかった。」という話はしばしば聞きますが、無料メルマガ『自分のルーツ(祖先)を1000年たどる技術』の著者・丸山学さん曰く、これは「誤解」なのだそうです。丸山さんが山陰地方で行った調査で、江戸時代の農民も自分たちの苗字を持っていたという驚きの証拠を発見したようです。

これを読めば、あなたもきっとご自身の苗字のルーツが気になると思いますよ。

江戸時代、庶民も名字を持っていた証拠を調査の中で見つけました

山陰地方の400年コースの調査が終了したのですが、名字について面白い発見がありました。

江戸時代は武士だけが名字を持っていて、それ以外の庶民(農民など)は名字を持っていなかった。庶民は明治期になって戸籍を作成する際に適当に名字を届け出たのでその名字はルーツを表すものとは言えない~というように誤解をされているケースが結構あります。

しかし、現代では江戸時代中の農民が名字を記載している文書も多数発見されており、庶民は名字を持っていなかった訳ではなく公の場面で名乗ることが出来なかったというに過ぎません。

ですので、農民は検地帳のような公文書には名字は記載されませんでした。

しかし、寺社の供養記録など私文書では農民が名字を記載している物が多数発見されています。

そして、今回の調査の中でもそれを裏付けるような出来事がありました。

調査を進めていくと、ご依頼人の家は江戸時代前期にある村(現在のご依頼人の本籍地から少し離れた場所。仮にA村と呼びます)のある家から分家して出来た家である事が分かりました。

この時点では、その本家に当たるA村の家の名字というのは分かりませんでした。

ある文書中にご依頼人家の始祖について「A村○兵衛の弟 分家してB町に居住」程度の事が書かれていました。

これにより、ご依頼人家の本家はA村にあり当主は「○兵衛」という名であると判明はしました。

しかし、そのA地区についてはご依頼人家は全く交流がなく、まして本家に当たる家の事などご存知ありませんでした。

そこで私の方でA地区に調査に入り、現地の方々に協力をいただいて、その本家について調べました。

結論を申し上げれば、その本家にあたる「○兵衛」の家は昭和30年頃に最後の当主が亡くなり、家を継ぐ子もおらず絶えてしまっていました(娘さんはいましたが、嫁いで他所へ行ってしまったそうです)。

A地区は農村地帯であり、江戸期は全戸が農民でした。

とにもかくにも、江戸時代前期というはるか昔に分かれたご依頼人家の本家は見つかった訳です。居住していた土地(現在は畑になっていました)も分かり、私もそこに行ってきました。


さて、問題は「名字」です。

いくら本家とはいえ、そこから分家したのは今から300年以上前のことです。

江戸時代で庶民が名字を名乗ることが許されない時代です。

庶民も名字を持っていたとはいえ、果たして本当に同じ名字なのか?

正直、私も半信半疑でしたが、これが見事に同じ名字だったのです。

300年以上前に枝分かれし、それぞれ別の土地で江戸時代から昭和まで存続し、交流は全く無くなっている家同士です。

それが、こうして調査を進めてみると同じ名字で出てきたのです。

今回は、ご先祖様をきちんと辿れた(戦国期の祖先まで判明)という満足感の他に「やっぱり江戸期の庶民も自家の名字をきちんと認識していたのだ」という事を自分の調査の中で確認できた事が嬉しかったです。

分家した後も、公には名字を名乗る機会がないにも関わらずその名字は代々伝えられて明治期の戸籍作成時に、本家も分家も離れた場所で同じ名字を役所に届け出たのです。

尤も、庶民も名字を持っていたとはいえ、明治初期に戸籍を作成する際に全く関係のない名字を届け出た事例も稀にですが見られます。しかし、大半は古来の由緒ある名字を届け出て現代に至っているというのが実状のようです。

image by:Shutterstock


著者/丸山学

丸山行政書士事務所代表。相続手続き、会社設立などの行政書士業務を行う傍ら、依頼者の家系図を作成するサービスにも積極的に取り組み、家系図作りのエキスパートとしてテレビ・ラジオ・雑誌等のマスコミ出演も多数。


② 門名(コトバンクより)


かど‐な【門名】

〘名〙 江戸時代、名字を許されなかった百姓の家を相互に区別するために生じた通称。その家のあり場所や、職業、血縁関係などによって生じた点が、商家の自主的につけた屋号と異なる。