大連神社と梅ノ坊、赤間神宮の境内 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

戦後に中国大連市から遷座してきた大連神社が赤間神宮の境内にあったが、この周辺には、かつて廃仏毀釈前の旧阿弥陀寺の坊があった。

大連神社(東から西に見下ろ、3D)
梅ノ坊(勅使殿、参考)、北西に大連神社、南南東に奇兵隊が宿営していた極楽寺、南南西に赤間神宮


参考

① 梅ノ坊(参考)


大連神社の境内の周囲には、赤間神宮ができる前の旧阿弥陀寺の梅ノ坊、奥ノ坊、西ノ坊、青蓮坊、円福坊、多聞坊などの諸坊があった。

ここは「梅ノ坊」で、小倉戦争の際には奇兵隊五番縦隊が宿営していて、庭園には四寸一分口径長砲一門が配備されていた。

また、日清講和談判の際に、全権大使だった伊藤博文が宿泊された。


② 梅の坊


梅の坊は赤間宮の東北にあって旧阿弥陀寺の一つである。阿弥陀寺は聖寿山と号し梅の坊をはじめ、青蓮坊、多聞坊、西福院、教順院などを有した大寺であった。

梅の坊は明治二八年四月、日清講和談判の時、全権大使伊藤博文の旅館になった。

(写真集 明治大正昭和 下関より)


③ 赤間神宮の北東隣の大連神社(参考1参考2)


日露戦役において現在の中国・大連は日本の租借地となり、その地に明治40年(1907)大連に住む日本人の氏神として、また、昭和19年(1944)に関東神宮が建立されるまで、中心的な神社として建立されたことに始まる。

昭和22年(1947)には、当時の水野久直宮司が、大連神社の御神体を背中に背負い、神宝と共に日本へ持ち帰り、福岡の筥崎宮へ小祠を建立し、お祀りした。

その後、水野宮司が赤間神宮宮司となったのを契機に、昭和48年の第60回神宮式年遷宮の古材を貰い受け、大連神社の御神体をお祀りし、ここに新たに大連神社としてお祀りした。


④ 中国の大連市の大連神社跡地(参考)