早鞆瀬戸(関門海峡)の今昔 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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関門海峡の最狭部の早鞆瀬戸あたりにある御裳川地区は、壇の浦の合戦、安徳天皇入水の地、そして幕末、四カ国連合艦隊に対し砲撃を仕掛けた砲台などがあった地であった。

この地区あたりは、元々、漁村であり、仕事場となった浜辺もあった。かつての早鞆瀬戸はもっと狭く、岩礁もあった危険な海峡であったようだ。

現在の早鞆瀬戸は海岸ギリギリまで浚渫され、潮の流れが悠々としている様に見えるが、かつてはもっと激しい流れがあったと想像する。

日清講和会議を唐戸の春帆楼で行ったのも、早鞆瀬戸を清国代表団に見せたくなかったと考えられる。もし見れば、ここを通過出来る戦艦や輸送艦の大きさを知られるからである。


参考

① 大正年代末までの早鞆瀬戸(関門海峡)

御裳川

一枚の写真だが何ともいえず、いい気分がただよっている。汽船と帆船が同じように並んでおり、浜では漁師が仕事をしている。

長久保赤水は享和元(一八〇1)年に死んだが下関に来てくわしく観察している。「町へ出て名物の硯を買ふ。紫石は当地の浅(厚狭)村より出づるなり」とある。

(写真集 明治大正昭和 下関より)


御裳川と壇之浦(大正10年)

(下関・豊浦の100年より)


② 現在の早鞆瀬戸(関門海峡)

門司から早鞆瀬戸を越えて御裳川あたりを望む
関門海峡の早鞆瀬戸


③ 海峡の自然  海峡の水深

関門海峡の水深は、意外に浅く約13メートルです。関門海峡には、航行する船舶の妨げにならないように常に浚渫作業船の姿が、どこかで見られます。

浚渫作業は、第四港湾建設局が行っているもので、潮流が速く、船舶の往来が激しいことから、一日の作業は四時間以内、平日の潮の流れが4ノット以下の時に行われます。

13メートルの水深で、3万トンクラスの船舶が航行できるそうです。13メートルは、関門橋のけた下から海面までの高さが61メートルですから、その四分の一にも及びません。

昭和20年に終結した第二次世界大戦では、関門海峡に5500発(日本全土11000発の半数)の機雷が投下され、沈没した船は約400隻を数え、船のマストが海峡に林立していたそうです。

(安富静夫著「関門海峡雑記帳」(増補版)より)


④ みもすそ川(御裳川)あたりの漁村は砲台建設の為に大正年代末に阿弥陀寺町に移転