空襲で焼ける前の赤間神宮前は民家が密集していた! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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現在の赤間神宮前はゆったりと広々とした緑豊かな安徳天皇を祭神とした赤間神宮らしい一帯を成している。

ただし、これは1945年の太平洋戦争の敗戦直前の空襲で、赤間神宮を含めて一帯全てが灰燼に帰したお陰であった。

① 昭和初期の赤間神宮前

赤間神宮前あたり(昭和初期) 、右の標柱が赤間神宮への入口。当時、上ろう道中がこの狭い道を進むため、随分混雑したという。(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


② 大正8年頃の赤間神宮(参考)

赤間神宮の南の海岸側の灰色で塗り潰された一帯は漁師の民家、船宿、料亭などで、現在の国道も当時は狭い路地のようだ。


③ 現在の赤間神宮前から安徳天皇阿弥陀寺陵前

国道9号線より北は境内地として整備され、国道は拡幅され、南側は参詣者の駐車場になっている。


④ 赤間神宮