参考
① 小野の三神社
誰もが知っている小野?
つい最近ですが、社会の教科書で有名な「仁徳天皇陵」を始めとした百舌鳥・古市古墳群がユネスコ諮問機関による世界遺産登録の勧告によって話題になっています。新元号となり天皇家への注目も集まる中、そのルーツでもある古墳にもスポットがあたりそうな気配...。
古墳と言えば、前述の大規模な古墳や奈良というイメージですが、滋賀の湖西地域も実は古墳だらけ。
現在の琵琶湖大橋の西詰にあたる地域に「小野」という地名があります。
小野と言えばこちらも教科書で有名な「小野妹子」。遣隋使という言葉とセットで出てきますね。
小野はその小野妹子の出身地なのです。
妹子を生み出した小野という地域には小野一族縁の古墳や神社が沢山存在しています。歴史的に超有名な人物であるにも関わらず、滋賀県アルアルらしくマイナーな場所の「小野」。そんな小野の三神社に行ってみました。
小野妹子神社
現在の小野はいかにもニュータウンといった感じの整然と綺麗なお家が並ぶ丘陵地のベッドタウンです。そのニュータウンの中にこんもりと小高い丘が。
丘には展望台もあり、なかなかの眺望ですよ。
妹子さんもここで近代的な街に囲まれ琵琶湖を望みながら眠っているとしたら、きっといい気分ではないでしょうかね。
小野道風神社
つづいては 「小野道風神社」。小野妹子神社から約1㎞北へ進んだ場所にあります。
ちなみに小野道風さん、菓子の体系を創造されたそうで、菓子業の功績者に匠や司といった称号を与えることを許されていた方です。
よく老舗の和菓子屋さんの暖簾に菓匠とか菓子司なんて書かれたりしますが、そういった流れの源流になった人なんですね。
小野道風神社
最後は「小野神社」。
小野道風神社からさらに850mほど北にあります。ここまで妹子、道風ときて、真打なのか「小野」神社と姓の部分のみの名前に。
どうやらここが「小野氏」の氏神様のようですね。小野妹子の時に創建され、道風のお祖父さん「小野篁(たかむら)」の代の話は続日本紀にも記録されているそうです。祭神は「米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみ)」という名前に見えるように、餅作りの神様として、これまた和菓子業界の信仰を集めているそうです。
この小野篁という方、なかなか当時としてはロックな精神を持っていた方で、ご先祖様である小野妹子のように、遣唐副使に任命されたのですがこれを拒否。嵯峨天皇の怒りを買い、隠岐へと流されてしまったのです。その時に詠んだのが百人一首で有名な「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」という歌(百人一首では参議篁という名前になっています)。超訳的にいうと、(釣り船の漁師よ、オレはいまから大海原を幾多の島々を潜り抜けて旅立つってヤルぜ!せいせいしてらって都の奴らに伝えろや)って感じでしょうか?
ちなみのこのロックな小野篁の孫とも娘とも伝わるのが、かの「小野小町」。
こちらの神社には小野小町の石塔があります。お墓と言う訳ではないようですが...。
小野小町も「花の色は 移りにけりないたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」の歌が百人一首にありますね。
絶世の美女と言われた彼女は実のところ本当に存在したのかよくわからないところがあるそうです。和歌の作家名というのはペンネームだったりもするそうなので、どこまで実在の人なのかわからない場合は意外と多いそうですね。
小野一族の歴史が今も残る「小野」。ミステリアスな古の世界に踏み込んでみるのも面白いですよ。
【小野神社】
〇場所:大津市小野1961
〇TEL:大津市観光振興課 077-528-2756
〇アクセス: JR湖西線「和爾駅」下車 徒歩20分
②-1 和邇【わに】(コトバンクより)
琵琶湖西岸,近江国滋賀郡の地名。滋賀県志賀町域(現・大津市)にあたる。大和の豪族和邇氏の部民が設定されていたことによる地名とされ,隣接する小野の和邇大塚山古墳の被葬者は和邇氏系の有力者と推定されている。北陸道の和邇駅が置かれ,駅馬7疋・伝馬5疋を備えていた。841年延暦(えんりゃく)寺の法勢大法師が竹生(ちくぶ)島に参詣する途次,和邇村に宿泊している。また湖上交通の要所でもあり,867年には和邇泊の船着場が崩れたとしてその修理が国司(こくし)に命じられている。883年には和邇御厨(みくりや)がみえ,贄人(にえびと)の活動が保障されている。
1001年には和邇荘が平惟仲(これなか)から白川寺喜多院に施入されているが,1042年当時の本田は89町であった。のち延暦寺領となり,1169年焼失した根本中堂の再建には杣工(そまだくみ)を出している。1227年佐々木信綱に承久(じょうきゅう)の乱の戦功として和邇荘地頭職が与えられている。江戸時代には幕府代官支配・旗本市橋知行所・三上藩領などとして推移,1651年の船数は38艘で,堅田(かたた)の漁師と漁場争いとなっている。
②-2 和爾氏(wikiより)
③ 小野妹子が隋の使者の文林郎の裴世清を日本に案内した折、瀬戸内海に入る手前に華夏(中国大陸)の言葉を喋る人々の国、秦王国があると紹介した(参考)
下関市大字綾羅木の綾羅木(アヤラギ)とは、綾羅城、すなわち綾人の国の意味で、綾人とは古事記によると秦氏と同族であった。