下関市にある綾羅木はアヤラギと読み、この音に別の漢字をあてると漢羅城となる。つまり、大陸からの渡来人、漢氏(あやうじ)の住む国(都市)のことであった。漢氏は広く秦氏の一派とも考えても良い。
遣隋使がヤマトへの帰国の途上、隋国の使者、裴世清に竹斯の次に秦王国があり大陸の言語(漢民族のしゃべる華夏語と勘違い)を話すと説明する。すなわち下関市の綾羅木こそ秦王国であった。
綾羅木郷台地にある下関市立考古博物館
① あやうじ【漢氏】(世界大百科事典 第2版より)
「漢直の祖は阿知使主(アチノオミ)である。応神紀二十年の条に『倭漢直祖、阿知使主、其子都加使主、並率己之党類十七県而来帰焉』とある。」
秦造の祖は弓月君で応神十四年に渡来、漢直の祖は阿知使主で応神二十年の渡来、それぞれ書き分けられている。ところが古事記本文(応神記)では、「秦造の祖、漢直の祖、及び酒を醸むことを知れる人、名は仁番(ニホ)、亦の名は須須許理(ススコリ)等、参渡り来つ。」と記載されており、秦造の祖と漢直の祖は同じであるとしている。
日本古代に朝鮮半島から渡来したもっとも古い中国系の帰化氏族。後漢霊帝の子孫といい,秦始皇帝の裔という秦氏(はたうじ)とならび称せられる。東漢(倭漢)(やまとのあや)と西漢(河内漢)(かわちのあや)の両系にわかれ,その後に渡来した今来漢人(新漢人)(いまきのあやひと)を加え,巨大な氏族として存続した。東漢は,大和国高市郡を中心に勢力をひろげ,7世紀までに,坂上・書(ふみ)・民・池辺・荒田井など多くの直(あたい)姓氏族にわかれ,天武天皇の八色の姓(やくさのかばね)において忌寸(いみき)姓に改められ,8~9世紀には,坂上氏を中心に政界に地歩を占め,宿禰(すくね)・大宿禰を賜る氏もあらわれた。
② 漢氏と秦氏の関係(参考)
【記紀の記述】古事記(岩波書店、日本古典文学大系)の応神記の注が簡潔なので引用する。
「秦造の祖は弓月君である。応神紀十四年の条に『是歳、弓月君、自百済来帰。因以秦之曰、臣領己国之人夫百二十県而帰化。云々』とある。」
秦造の祖は弓月君で応神十四年に渡来、漢直の祖は阿知使主で応神二十年の渡来、それぞれ書き分けられている。ところが古事記本文(応神記)では、「秦造の祖、漢直の祖、及び酒を醸むことを知れる人、名は仁番(ニホ)、亦の名は須須許理(ススコリ)等、参渡り来つ。」と記載されており、秦造の祖と漢直の祖は同じであるとしている。
③ 羅城(wikiより)
「羅城」とは都城の城壁のこと。中国の城郭都市で、石や煉瓦で築かれた外廓のことを指し、日本には中国のような構造の羅城は造られなかったが、羅城門(羅生門)は築かれた。平安京(現在の京都市中心部)の羅城門が有名である。
④ 綾羅木の地名由来の従来説
・神功皇后が三韓征伐之時、この地でアヤラと掛け声をかけたから
・伊邪那岐命と伊邪那美命の禊のアワギハラが訛ったから
・竹生観音(竹生寺)の縁起に、僧金実仲がアヤラーと叫んだから
・古代朝鮮半島の国、安羅(あら、安耶、あや)の国から来たもの
安羅説には次の補強説(参考)がある、
・古代の朝鮮半島にあった加羅の一部に安羅がある。安耶ともいう。ここから来た織物を綾織、綾錦、綾衣、絢という。綾織は漢織とも書いて中国の「漢」になぞらえている。地名では下関市綾羅木があるが、荒木は安羅来であろう。
⑤ 綾羅木あたりを中心とする下関市の綾羅木川流域が穴戸国であり、ここに豊浦宮が置かれた(参考)
⑥ 古代の綾羅木あたりに、ある時期、秦王国があった(参考)
⑦ 穴戸の由来は朝鮮半島の安那(あな)からの渡来の窓口から(参考)
⑧ 当時のヤマト政権の官僚は渡来人の秦氏より以前の人間の言葉(方言)を喋っていたのであろう。乙巳の変(645年)以前は蘇我氏など豪族が政権を握っており、彼らの方言と考えられる。