最近の中国にも虐殺の歴史があった | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

中国の1989年に起きた天安門事件、若者達が天安門広場に集まり政府に自由化を求め、鎮圧に来た戦車隊の行く先を一人の青年が立ちはだかった。

私の他、中国の外の人々には、その程度の情報しか伝わっていない。中国の内の人々には結果について何も知らされていないであろう。例の戦車の前の青年のその後なんて、想像だにしていなかった。

実は、例の青年は戦車にそのまま轢き殺され、更に一万人以上の若者達が殺されたとのことである。残された写真が虐殺の場面を除いた事前・事後のものしかなく、事の重大さが認識できていない。

以前の文化大革命でも四十万人から一千万人もの人々が殺され、一億人もの人々が何らかの被害を被ったとされている(wikiより)。朝鮮についても、韓国の済州島四・三事件などの虐殺事件があった(wikiより)。

中国や朝鮮では、民族文化や価値観や主義主張の相違を受け入れることが出来ず、暴力で反体派を抑え込んで虐殺にまで至る歴史があった。


雑談

中国人、朝鮮人、日本人の核DNAを分析すると、中国人や朝鮮人は、それぞれバラツキが少ない均一な特徴を持つが、それに対し日本人は多様な特徴を持つ人々の坩堝に見える。

その原因として、中国人や朝鮮人には多くの異分子を殺す淘汰が働くからであろう。反体制派は殺されるか、国外に亡命するしかない。

日本の歴史においても、倭国大乱、壬申の乱、源平合戦、応仁の乱からの戦国時代、関ヶ原の合戦、明治維新など日本全国を巻き込む争いがあった。しかし、日本人の核DNAの多様性が日本には虐殺の歴史が殆ど無かった事の証明になろう。

すなわち、原理的には兵士同士の戦いであり、大将の首を討ち取れば勝負がついた。勝者が敗者全員を皆殺しにしたとか、争いに無関係な非戦闘員までも大量に虐殺したとかの事例は殆ど知らない。 ただし、織田信長や徳川家康らが一向宗や比叡山に対して行った有名な事例の他、江戸時代の島原の乱や常陸国の百姓一揆とか無い訳ではない。明治維新については、敗れた徳川幕府と武士達には自活の道が与えられ、虐殺は全く無かった。


参考

① 「六四天安門事件」、真実の写真がネットで大反響=中国

大紀元、エポックタイムズ(2009.9.4、参考)


1989年「六四天安門事件」で、体を張って戦車の進行を阻止しようとした後、行方不明になった王維林さんの写真が、中国騰訊ネットの「建国六十年、民間ファイル応募集」のサイトに掲載されていた。中国政権の武力行使の象徴であるこの写真は、その後削除された。騰訊ネットは中国国内にあるポータルサイトの中で、もっとも利用者の多いネットサイトである。

中国共産党(中共)は執政60周年を迎えるにあたり、中共の宣伝部は世論への制御を強化している。その中で、8月30日午後、中国騰訊ネットで六四天安門事件に関連する、戦車を阻止する「発禁」写真が掲載された。この写真は騰訊ネット上ではわずか1~2時間の掲載だったが、ネット利用者らはそれをTwitterに転載し、短時間でアクセス数が急増した。

騰訊ネット側は事の重大さに気づき、写真を取り下げ、掲載した「建国六十年、民間ファイル応募集」のサイトも同日夜に閉鎖した。

中国で利用者がもっとも多いポータルサイトで、中共にとって「敏感極まる」写真が掲載されたこと自体がネット利用者の間で諸説紛々となった。北京の某ネットサイト編集者によると、大陸のネットに掲載される写真・文章はすべて、事前に審査を受ける必要があるという。今回の場合、中共主管部門はネットサイトに罰金を課するほか、編集者は即刻解雇になる可能性が強いとしている。

2年前、六四天安門事件の18年目を迎えた際には、『成都晩報』の広告欄に「確固たる意志を貫いた犠牲者の母親たちを敬おう」という広告が掲載されたことで、同件にかかわった7人が新聞社から解雇され、広告会社の社長も始末書を書かされている。

(翻訳編集・余靜)


② 英外交機密文書、天安門事件で死者1万人以上と記載

大紀元、エポックタイムズ(2017.12.21、参考)



28年前中国の軍隊が北京の天安門広場で大規模民主化デモに参加した大学生や市民らを武力弾圧した「六四天安門事件」。中国政府は当初「死亡者は一人も出ていない」と発表し、その後「死者200人余り」と修正した。英国政府が最近、当時中国上層部の信頼できる情報源から入手した機密文書を公開した。それを閲覧した香港メディア「香港01」は、文書には死者は少なくとも1万人に達したとの記述があった、と報じた。

イギリス政府の文書保管機関、英国立公文書館(TNA)が11月、同事件に関する数千ページの外交機密文書を解禁した。

イギリスの消息筋が中国国務院当局者から入手した情報によると、国務院の統計では死者は少なくとも1万人に達する。当時、最高指導部は瀋陽軍区部隊、山西省の第27集団軍を北京に派遣した。作戦は4段階に分かれて、第1~3段階は瀋陽軍区が市民と学生を分離させる。第四段階は第27軍が学生参加者全員を射殺する、というものだった。しかし、瀋陽軍区の軍人が市民と学生を分離させている最中、装甲車内の第27軍兵士はすでに銃射撃を開始、学生のほか、市民と瀋陽軍区の軍人も多数銃殺された。

同消息筋の身元を特定できる部分はすべて黒塗りされている。ドナルド駐中英国大使(当時)は外交電報で、過去に同中国当局者からの情報はいずれも正確で、今回の情報も高い信ぴょう性をもつとの見方を示した。

事件の直後、中国国防部は諸国の在中大使館の武官を招いて、軍の現場での行動を説明する場を設けた。欧米諸国のなか、米国とフランスは招待されず、英国の武官は予定ありの理由で欠席、豪州とカナダ両国のみが参加、日本は辞退した。

いっぽう、2014年、同事件に関する米公文書も解禁された。当時、香港誌・壱週刊は中国軍部の協力者はリリ駐中米国大使(当時)に、中国政府の内部統計では天安門事件の死者が1万454人、負傷者が2万8796人と伝えた、と報じた。

六四天安門事件とは、1989年6月3日深夜から翌日未明にかけて、天安門広場に民主化を求めて集結していた大学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、軍隊が武力弾圧し、多数の死傷者を出した大量虐殺事件である。

中国政府は当時、軍が武力を行使しておらず、死傷者もいないと主張したが、後に200人あまりは流れ弾に当たって死亡したとした。インターネットでは事件に関する情報はすべて規制されており、当時の学生は暴徒と定義され、国民のほとんどは真実を知らない。

「香港01」は同記事を掲載当日に取り下げた。

(翻訳編集・叶清)


③ 天安門事件30周年 当時の写真2000枚が初公開

大紀元、エポックタイムズ(2019.5.11、参考)

死傷者1万人超とされる六四天安門事件はまもなく30周年を迎えようとしている。自由を求める丸腰の学生や市民らに中国当局は銃口を向けた。事件は時間とともに風化されつつある。当局の情報封鎖で今の中国の若者は事件の存在さえ知らない。当時の様子をカメラに収めた19歳の大学生劉建(Jian Liu、仮名)さんですら、30年間、フィルムの存在を忘れていた。

このほど劉さんは大紀元の取材に応じ、2000枚に及ぶ貴重な写真を大紀元に提供した。



③ 天安門事件の一夜明けた後

FNN PRIME(2018.10.26、参考)

平井文夫



④ 日本人とアジア大陸の人々とはDNAが異なる(参考)


静岡の国立遺伝学研究所の斎藤成也教授は、500人以上の日本人と、アジアの数千人のDNA解析を行った。DNAの特徴を元に、グラフに落とし込むと、アジアの大陸の人々は比較的分布がまとまるのに対して、日本人はそれと大きく分布が違うことが分かった。この違いは、沖縄の人たち、それからアイヌの人たちという順に大きいことが分かった。

国立科学博物館の神澤秀明研究員は、縄文人の歯のDNAを分析したところ、日本人が分布する方向の先(アイヌ人の先)に縄文人のDNAが位置することが分かった。