旧下関商業学校、現下関商業高等学校 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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入江町時代の下関商業学校(明治二十九年) 

下商の前身は、明治十七年西之端町にできた赤間関商業講習所。明治二十四年か同三十五年まで、現在の王江小学校の地にあった。(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)

下関市入江町9−1 下関市立王江小学校


名池山時代の下関商業学校

下関商業学校の歴史はなかなか変っている。 まず最初は明治七年一〇月一八日西之端に出来た赤間関商業講習所である。これは日本でも古いもので八番目といわれ、まだ市にもなっていなかったから二三ヵ町連立であった。

明治一九年一一月赤間関商業学校となり、写真は、明治三五年三月名池山(現在の名陵中学校)に移った時のものである。

(写真集 明治大正昭和 下関より)(彦島のけしきより)

下関市丸山町1丁目13−3 名陵中学校

注: 名池山校舎(現在の名陵中学校)は大正十年に全焼、バラック教室で過ごしたが、大正十五年、千畳ヶ原(現在地)に鉄筋コンクリートの新校舎が落成、三度目の引っ越しを行った。


参考



③ 現在地に移転した下関商業学校

下関商業学校下校風景(昭和十年)

服装は制服·制帽ともに草色の小倉織霜降りを着用、白脚絆に里短靴、白の肩かけ雑のう鞄を使用していた。昭和十六年から全国的に国防色に統一された。(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)


④ 下関商業高等学校と渋沢栄一の額

YAB山口朝日放送(参考)


下関商業高校  商業都市の礎石に


名池山の坂道のほぼなかほど、今の名陵中学のあるところに昔の下商はあった。明治三十五年から大正末。門を入って正面から左に続く古びた木造二階建ての本館と教室、また門の右側には近代的なイギリス風建築の図書館。古い木造と調和して、それは静かで美しい、まさに「名門」のムードをかもし出していた。

下商の創立は下関市制施行よりもさらに五年前の明治十七年。西之端町、今の商工会議所隣りに設立された赤間関商業講習所が始まりである。東京商法講習所(現· 一橋大学)などに次いで、わが国八番目の商業教育学校だった。市制施行に伴って市立商業学校となり、入江町に校舎建設、その後、実業教育振興の機運が高まり、校舎拡張の声が起こって明治三十五年、名池山に新校舎を新築移転した。

当時、九州には商業学校は一校もなく、下商への入学志願者は九州各地だけでなく、広島あたりにも広まっていた。この名池山時代は、下商の大いな飛躍発展の時代だった。入学志願者も激増し、従来の定員五百人は、大正九年から六百人、十一年七百人、十二年からは千人にとふくれ上っていった。名門·下商の名をほしいままにしていたころである。下商の伝統をうかがい知るものの一つとして校章がある。わが国の、およそ学校と名のつくものの校章で、一番早く定められたのは明治十八年の一橋、翌年東大が制定したが、下商はこれに次いで明治二十年に今のマークを制定しており、実に全国で三番目という古さなのだ。同時期に制定された学校などでは、今日に至るまでに変更されたりしているが、下商マークは制定以来、実に九十年間、連綿と使い続けられてきているのである。

名池山には運動場があった。何しろ明治三十一年の野球部創設というから、こちらの歴史も全国有数だが、名池グラウンドでは盛んに行われていたものだ。他のスポーツも下商は強かった。テニスも盛んになり、ボートも今では信じられないほどの人気ぶりだった。

名池校舎は大正十年に全焼、バラック教室で過ごしたが、大正十五年、千畳ヶ原に鉄筋コンクリートの新校舎が落成、三度目の引っ越しを行った。昭和十年には大講堂も完成、名実ともに充実してこの年五月には五十周年式典を挙行、卒業生も三千を数えるに至ったのである。

下商史で忘れられないのは、やはり満鮮への修学旅行である。他校も後年、下商にならって実施するようになったが、満鮮修学旅行は大正十三年五月、下商が初めて踏み切ったのである。釜山…京城…仁川…平壌…安東…撫順…奉天…大連…旅順という大がかりなもので、実に昭和十四年まで続けられたという。しかし、昭和十年ごろから軍国主義的傾向が強まり、商業教育に対しては、くり上げ卒業や修業年限の短縮など「戦時非常措置」が講ぜられるようになり、さらには商業教育の無用論さえもが出てきたのである。男子商業学校は全面的に転換といった方針も打出され、結局、下商は女子部を設けて商業学校として存続することになった。女人禁制の下商に、初めて女生徒が加わることになったのだ。

かつて「下商に入学するのが最エリート、下商に落ちると次は豊中,その次が関中」などと言われていた。そんなところから「戦前の下商はね」なんて言葉も飛び出してくる。実際に、布浦真作山口銀行会長をはじめとして、下商人の活躍は目を見張るものがあった。下関が商業発展をとげた素地は、下商人によってつくられたと言っても、決して過言ではないだろう。しかし、戦後の商業教育変革、教育制度改革の中で、下商は荒波の中に立たされた。

けがしてはならない過去の栄光…そんななかで下商の個性が求め続けられているが、コンピューターシステムの導入など同校は今、新時代の下商人づくりに躍起となっている。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)


⑥ 王江尋常小学校

王江尋常小学校の児童(明治末年ころ) 、明治七年八月に創立、同十六年十一月に王司山(岬之町)に校舎を新築。当時は県下一の規模を誇った。同三十五年、現在地に移った。(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)

王江小学 岬之町の王司山

王江小学の始めは明治七年八月一四日、岬之町の民家の一部を借りて王江私小学として発足した。明治一六年一一月一八日王司山(岬之町)に全国でも屈指の校舎を建築し、外観内容ともに当時県下第一として文部大臣から表彰を受けた。この写真はその当時のものである。

(写真集 明治大正昭和 下関より)(彦島のけしきより)


⑦ 春の甲子園優勝、夏は準優勝