日立中央研究所、野川の源流 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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JR中央線の武蔵国分寺駅の西に日立中央研究所があった。著者は小金井市の国立研究所に勤め、JR武蔵国分寺駅と西武国分寺線国分寺駅を利用していた関係で中央研究所の鬱蒼とした森を眺めていた。

西武電車から日立中央研究所の敷地を壁越しに見ると、野川の源流となる湧水池が見えた。この研究所の敷地は、かつては今村別荘と言われる広大な住宅地であった。また、この敷地には縄文時代の遺跡もある。

さらに西には矢張り野川の源流の一つの姿見の池がある。この池の名前は嘗てあった遊郭の遊女と武将の恋愛伝説に由来する。そして、地名の恋ヶ窪はこの遊郭と恋愛伝説に由来する。

JR中央線の南には武蔵国分寺の遺跡が保存されている。また、日立中央研究所との間には、かつて旧国鉄の鉄道研修所があった。

左手: JR中央線と西武国分寺線、右手: 日立中央研究所(野川の源流の池)、真っ直ぐ進むと姿見の池に辿り着く

日立中央研究所と姿見の池と武蔵国分寺跡

東京都国分寺市東恋ケ窪1丁目280 日立製作所 中央研究所


参考

① 日立が「武蔵野の森」にいた研究施設の正体

冨岡 耕:東洋経済 記者(2019.4.18、参考)

日立製作所は東京・国分寺市の中央研究所内に研究施設「協創の森」を開設した(記者撮影)

「返仁会」――。日本企業で最大規模の博士を抱える日立グループの現役社員やOBの集まりで約2000人が在籍する組織だ。初代会長は日立創立者の1人である馬場粂夫博士で、当時は「変人会」と名乗っていた。「高度の発明をなすものは、変人以外は期待し難い」という持論からついた名前だ。

東京・国分寺市にある日立製作所の中央研究所の正門をくぐると、眼前に飛び込むのがまさにその多くの変人が通ってきたであろう「返仁橋」だ。「一歩研究所に踏みこんだならば、変人であれ。しかし橋を渡り世間に戻る時には、人をいつくしむ心、すなわち仁に返れ」という意味が込められている。そんな返仁橋の先に日立が新たな研究施設を新設した。

顧客と協創する研究施設

4月11日、日立は同社最大の中央研究所に新たな研究施設「協創の森」を開設した。東原敏昭社長は同日のオープニングセレモニーで、「『協創の森』は中央研究所の研究者やデザイナーがお客さまやパートナーと一緒にアイデアを出し合い、議論を深め、日立の持つ基盤を活用いただくことでイノベーションを創出していく場にしたい」と意気込んだ。

中央研究所の正門をくぐると、目の前に現れる「返仁橋」(記者撮影)
中央研究所は1942年に設立。国内に3拠点ある日立の研究所の中では最大規模で、約900人が研究者として研究に日夜励んでいる。横浜研究所がシステムIT関連、日立研究所がプロダクトや制御技術を中心に研究する一方、中央研究所は基礎研究や技術関連などで広範囲をカバーし、博士も多く在籍する日立の“最強頭脳拠点”といえる。

新設した協創棟は地上4階建て。1階には前述の馬場博士の名を冠し、350人を収容できる国際会議場「日立馬場記念ホール」を設けたほか、「アイデアソン」や「ハッカソン」などオープンな議論からアイデアを創出する場「NEXPERIENCEスペース」も配置した。

また2階にある「プロジェクトスペース」では顧客企業が持つ技術と、日立の人工知能(AI)やセンサー、ロボットなどの先端技術やIoTプラットフォーム「ルマーダ」を活用し、検証や実証を素早く繰り返すことで、技術やサービスを顧客と集中開発できるという。

早稲田大学との共同研究の成果である、ドアを開けて通過するロボット(記者撮影)

開設した11日は具体的な「協創」として、さまざまな展示やデモを来場者に見せていた。中でも目を引いたのが早稲田大学との共同研究である、ドアを開けて通過するロボットだ。デモではドアノブを自ら回して通過していた。一見すると単純な動作だが、ロボットにとってドアノブを回して押したり引いたりしながら、自分の体が邪魔にならないように通過する動作は難しい。

従来であれば、複雑な開発工程で膨大なプログラミングが必要となるが、今回は学習済みの複数の動作を自律的に組み合わせてロボットの制御を行う深層学習(ディープラーニング)技術を開発。「ドアへの接近動作」「ドア開け動作」「ドア通過動作」を別々に学習しても、これらの学習済み動作を組み合わせることで、ロボットが自律的にドアを開けて通過するという一連の動作ができることを披露していた。

「自前主義」の限界

建物内を歩くと、大きな窓からは建物を囲む武蔵野の自然が多く見えるほか、全体的に間仕切りを減らしたオープンなスペースを多く設置し、シリコンバレーなど外資系企業の雰囲気に仕上げているように感じる。これまでの環境を変え、議論を活発にするように建物全体から工夫されており、顧客とともに思いついたらすぐにアイデアを共有し、どこでも試作や検証できるのが特徴だ。

建物内では間仕切りを減らしたオープンなスペースを多く設置している(記者撮影)

日立は「協創の森」を産官学など顧客との連携や広くアイデアを募る場として活用し、新事業の創出を急ぐ構えだ。このタイミングで外部と積極的に協力し、自社の技術資源を公開しようとするのは、あらゆるモノがインターネットにつながるIoT時代を迎え、“自前主義”を限界とみているからにほかならない。

日立でCTO(最高技術責任者)兼研究開発グループ長を務める鈴木教洋執行役常務は「自社製品の開発だけでは難しくなっている。顧客の抱える問題を解決することが必要だ」と、その背景を説明する。

実際、独自技術へのこだわりの強さから、外部からの視点が欠けることもあり、中央研究所が“象牙の塔”となっていた面は否めない。そのうえで鈴木CTOは「(顧客と多く会うことで)研究者の意識を変え、顧客との『協創』を促進する。協創の森で顧客とともにイノベーションを起こしていきたい」と語る。

欧米勢との競争に打ち勝つ本気度

日立は2015年に東京・赤坂に新規事業を顧客と共同で検討する拠点を構えていたが、赤坂はデジタルショールームとして活用する一方、そこに在籍していた研究者数百人規模は今回、国分寺の中央研究所に異動となった。

日立製作所のCTO兼研究開発グループ長を務める鈴木教洋執行役常務(記者撮影)

研究者にとっても顧客にとっても国分寺は都心から離れてしまうが、鈴木CTOは「実際に新規事業を立ち上げるには、実際にモノを見たり、プロトタイプを作ることが必要になる」としたうえで、「協創の森は『地』の利よりも日立が技術やノウハウを育んできた『知』の利がある。その場で試作しながらビジネスを作る深い議論ができる」と強調する。

協創の森では今回、共同研究開発や実証を進めるための枠組み「パートナープログラム」も策定。これに参画すると、プロジェクトベースで日立が未公開の最先端技術をパートナーに紹介し議論を進めていくことができる。

未公開の研究成果については3年の守秘義務を順守することが条件だが、巨大な日立がスピード&オープンに大きく舵を切ることで、ドイツのシーメンスやアメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)やIBMなど欧米大手との競争に勝ち残りたい本気度がうかがえる。

今回の改革によって技術者がより力を発揮し、日立を変えることができるか。新たな挑戦は始まったばかりだ。


② 日立中央研究所の敷地はかつての今村別荘(参考)

今村別荘は今村銀行(後の第一銀行、みずほ銀行の元銀行の一つ)の頭取であった今村繁三氏の別荘であったものを日立製作所が昭和17年(1942年)に買い取り、日立中央研究所を建てています。


③ 姿見の池(参考)


「姿見の池」の名の由来は鎌倉時代、この池のある恋ヶ窪がこの付近を通っていた鎌倉街道の宿場町であった頃、遊女たちが自らの姿を映していたという言い伝えによるります。(ちなみに、現在鎌倉街道の痕跡を示すものはほとんど残っていません。考古学的な遺跡がある。)

さらに、この池は「一葉松0ひとはのまつ)」という伝承にも登場します。鎌倉時代の武将・畠山重忠(はたけやまのしげただ)は源頼朝の平氏追討に際し、いち早く頼朝に従い、本拠地のある埼玉と鎌倉の間を往復するようになります。そしていつしか、この地の遊女(現在で言う売春婦)・夙妻太夫(あさづまたゆう※現地案内板の読み)と恋に落ちます。しかし、やがて重忠は頼朝に従い出陣。その間に太夫に恋をしたもう一人の男が太夫に、重忠が戦死したという偽りの知らせをもたらし、嘆き悲しんだ太夫はこの姿見の池に投身し亡くなります。彼女の死を哀れんだこの地の人は彼女の墓に1本の松を植えます。その松は枝に一つしか葉をつけないという不思議なものだったそうです。一方、何も知らず凱旋した重忠も同じく彼女の死を哀れみ阿弥陀堂を建て霊を祭ったということです。このようなエピソードからこの地は「恋ヶ窪」と呼ばれるようになります