大阪造幣局の桜の桜の通り抜け | 日本の歴史と日本人のルーツ

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大阪市北区天満1丁目1−79 造幣局桜の通り抜け


参考

① 造幣局でお年寄りら招き「観桜会」 通り抜けは9日から 大阪

毎日新聞(2019.4.8、参考)


大阪の春を彩る「桜の通り抜け」が始まる前日の8日、お年寄りや障害者を招いた恒例の「特別観桜会」が、大阪市北区の造幣局で開かれた。多くの桜が見ごろを迎え、約2500人の招待客は鮮やかな桜のアーチを楽しんだ。

今年は134品種338本の桜が並ぶ。昨年9月の台風では、53本で枝が折れるなどの被害に遭った。7本を新たに植え、今年の「通り抜け」に備えた。一押しの「今年の花」には、花が密集して手まりのように咲く「紅手毬(べにてまり)」が選ばれた。

近くの無職、石川和代さん(80)は「青空に映える淡いピンクの桜が特にきれいですね」と笑みを浮かべた。

一般公開は9~15日の午前10時~午後9時(土日は午前9時から)。造幣局は例年並みの約70万人の人出を見込む。問い合わせは050・5548・8686。【山崎征克】


② 日本の近代造幣と遠藤謹助―「長州ファイブ展」より⑨―

萩博ブログ(2006-08-14、参考)

今年は梅雨が長かったのでそうでもないのかなぁ、なんて気楽に考えていたら、やっぱり暑いですねー。お盆まっただ中ですが、年中無休の萩博は、スタッフ一同元気に皆様のご来館をお待ちしております!


余談はさておき、造幣局の桜並木の「通り抜け」を発案したことで有名な遠藤謹助。しかし実際のところ、彼がどういう生い立ちをしたのか、また造幣局でどういう仕事をしたのか、わからないことだらけの人物だというのが、今回の展示の準備を通してよくわかった点です。

ただ最近は「造幣の父」というコピーが出回っているようですが、私はこれにはちょっと違和感があります。だって、もしそうだとしたら、江戸時代に小判が使われていたのはおかしいし、起源をさかのぼれば、江戸よりもっと以前から貨幣は使われていたのですから…。

とにもかくにも、彼にあえてコピーを付けるなら、「近代造幣の父」というぐらいは許されるのではないでしょうか。それを垣間見れるのが、写真のような銅銭、いわゆるコインです。金貨・銀貨も造っていましたが、写真は遠藤が造幣局長在任中に造られた「龍紋二銭銅貨」で、裏面に施された精緻(せいち)な龍の紋様が特長となっています。でも「銭」(せん)といっても、戦後世代には馴染みがないはず。「円」の100分の1が1銭で、戦後になって廃止されています。


ところで「鉄道の父」の井上勝が、お雇い外国人はコストがかかって不経済、との思いから、いちはやく日本人鉄道技師を育てるため、大阪駅に「工技生養成所」を設立したのは有名です。遠藤は造幣の分野で、このことに通ずる仕事をしたといってもよいのかもしれません。

遠藤は明治3年(1870)、大蔵少輔(しょうゆう)兼造幣頭の井上馨の計らいで造幣権頭(ごんのかみ)に抜擢されました。そして翌4年、大阪に造幣寮(明治10年に造幣局と改称)が竣工し、同年5月、新価条例・造幣規則が制定され、わが国の近代的貨幣制度が確立しました。

しかし当時、造幣の指導にあたったのは、お雇い英国人技師トーマス・キンドルです。彼は明治3年に来日して造幣寮の首長となり、寮の建設と機械の据え付けに尽力し、通貨の品位・量目については銀本位制とすべきという意見書を提出しました。また造幣年報を発行して日本の貨幣の信用を高めることに努め、造幣関係の諸規則・諸制度の制定などに貢献したとされています(『明治維新人名辞典』参照)。

これに対して遠藤は、日本人技師だけの力で造幣を行うべきだという考えを抱き、造幣学研究会を立ち上げるなど、日本人の造幣技術者養成に努めました。

その後、キンドルとの対立からいったん大蔵大丞(だいじょう)に転じましたが、明治14年(1881)に造幣局に復帰して局長となりました。以後、11年余にわたって同職をつとめ、洋式新貨幣の製造に成功し、わが国の造幣史に新たな1ページを刻んでいます。

だらだらと長くなってしまいましたが、私が遠藤のコピーを「近代造幣の父」に修正させてほしい理由が、少しでもお判りいただけましたでしょうか?

(道迫)


③ 西郷隆盛と明治天皇の造幣局行幸