山階鳥類研究所、我孫子市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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千葉県我孫子市高野山115 山階鳥類研究所


参考

【千葉】<新しい時代へ 皇室ゆかりの地を訪ねて> (3)「手賀沼」と歩んだ平成

東京新聞(2019.14、参考)

世界各地の鳥の剥製をはじめ、貴重な標本が展示されている館内を案内する斉藤安行さん=いずれも我孫子市で

平成に入って間もない一九九〇年五月に開業した我孫子市鳥の博物館は、かつて日本の湖沼で最も汚れていた手賀沼の再生に向けたシンボル施設として、昭和末期の八〇年代に構想された。当初から建設・運営に携わり、現在は副市長の青木章さん(67)は「山階鳥類研究所を誘致したことが、国内唯一の鳥の博物館が誕生するきっかけとなった」と振り返る。

山階鳥類研究所は、元皇族の山階芳麿(一九〇〇~八九年)が東京都渋谷区の自邸に設けた山階家鳥類標本館が母体。絶滅危惧種のアホウドリなどの保護に向けた研究を行い、天皇皇后両陛下の次男の秋篠宮さまが総裁を務める。八二年三月、青木さんが所属していた市企画課に寄せられた一本の電話が始まりだった。研究所が手狭になり、移転先を探しているという内容。ほかの自治体も手を挙げる中、八三年五月、我孫子移転が決まる。

青木さんは「当時の研究所の専務理事と市幹部職員の父親が旧制高校の同級生で情報が早かったこと、我孫子野鳥を守る会に尽力いただいたことなどが、誘致を成功させた」と話す。

鳥をはじめとする身近な動植物への関心を高め、保護意識を通じて、手賀沼再生へ市民の自覚を促す-。これが研究所誘致のねらい。研究所の貴重な収集品や蓄積された学術データを広く一般に紹介しようと、南隣に博物館がつくられることになった。青木さんは人事異動で「博物館係長」の肩書を得て、博物館の立ち上げという未知の仕事に取り組んでいく。

◆3000点の剥製標本

「実物を中心に見てもらいたいというのが、開館時からの基本理念。剥製標本を作るため、珍しい鳥がいる動物園などをリストアップし、死んだ際に連絡をくれるよう依頼した」。専門家として市が採用した学芸員の斉藤安行さん(61)が打ち明ける。

連絡が入ると、全国各地に車を飛ばして、亡きがらを受け取りに向かった。横浜市の野毛山動物園からはコンドル、千葉市動物公園からはダチョウ、オウサマペンギンを入手した。フェリーを使って、北海道大学の演習林から、クマゲラが大木をくちばしでくりぬいて作った巣を持ち帰ってきたこともある。三千点に及ぶ館所蔵の剥製標本は、こうした工夫で増えていった。

青木さんにとって思い出深いのが、開館を告知するポスターだ。四本脚のダチョウが大きく描かれ、鳥の脚は何本かを問い掛ける。「冒険でした。だって行政機関が間違ったことをわざわざ提示するんだから。でも、よい意味で大きな反響がありました」

◆市民活動の拠点に

運営が軌道に乗り、鳥の博物館は市民活動の拠点ともなっている。館内には、約三百人の友の会会員が使うスタッフルームが設けられ、工作や調査報告書、冊子編集などに集まるメンバーらでにぎわう。友の会会長の木村稔さん(79)は「鳥博があることで、鳥についてのそれぞれの関心事に打ち込める。多くの人が幅広く交流できている」と笑顔を見せた。 (堀場達)

<山階鳥類研究所> 鳥類を専門に研究する公益財団法人。絶滅危惧種のアホウドリやヤンバルクイナなどの保全研究で知られる。天皇皇后両陛下の長女の紀宮さま(黒田清子さん)がかつて非常勤研究員として勤めた。手賀沼に近い我孫子市高野山に84年、移転した。