斗南藩で生まれ育った旧会津藩士の末裔は順調に大出世していた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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賊軍であった旧会津藩士の末裔で、下北半島にあった斗南藩で生まれ育った柴五郎は陸軍大将まで昇進し、終戦直後に自決の怪我が元で病死した。

旧会津藩出身者が陸軍大将になれれば大したものです。また、陸軍中将になった時、明治維新の発祥の地の下関要塞司令部の司令官になっている。

これは信頼された証であり、「陸軍中将に進級するが、補職は下関要塞司令官であった。数々の武勲を立てた柴が閑職にあったのは陸軍大学校を出なかったからとも、朝敵である会津藩の出だから」と言うのは、東北人の僻みも甚だしい。

しかし「その後、師団長を務めてからは大将街道に復帰する」と言うことは、下関要塞司令部の司令官になれることは地元の長州人の上に立った象徴であり、出世の一里塚と考えて間違いない。


雑談

下関は幕末、夷狄の撃ち払いの最前線であり、明治になって真っ先に要塞化された。ここの司令官になれることは、たとえ閑職であっても、名誉なことである。

会津若松市や周辺の旧賊軍にゆかりの地では何でも差別されたと僻み、例えば東條英機の父親は陸軍中将止まりで大将になれなかったと僻んだとか!中将までなれれば大したものである。


参考

① 柴五郎の生涯に むつの若者が始動

福島民報社(2018.12.23、参考)


元会津藩士で、後に陸軍大将を務めた柴五郎に光を当てるプロジェクトを青森県むつ市の若者有志が始めた。地元で地域おこしに取り組む高屋龍一さん(37)がけん引する。

雑誌の特集で柴の存在を知った。八歳で会津から斗南に渡った後、苦難を乗り越え、信念を貫いた姿が描かれていた。「地元からこんなに立派な人物が出ていたのか…」。苦節にも屈しない生涯に強い感銘を受けた。会津藩士の子孫らでつくる斗南会津会のメンバーから逸話を聞き取るなどして知識を深めた。

思いは柴が生まれ育った会津にも及ぶ。会津若松市で開かれている会津まつりの会津藩公行列に昨年、斗南藩士役で参加し、鶴ケ城下を練り歩いた。

強く印象に残るやりとりがある。「むつ市から来ました」と会津若松市民に告げると、「先祖が大変お世話になりました」と深々と頭を下げられた。思わぬ反応に驚きつつ、藩士が移り住んだむつ市を会津の人が思い続けてくれていることに胸を打たれた。 ◆足跡を後世に 柴が起居したむつ市内の住居跡地や、柴が日常を過ごした呑香(どんこ)稲荷神社周辺の美化作業に昨年夏、初めて臨んだ。柴の実兄で、「東海散士」の名で政治小説を著し、政治家としても活躍した柴四朗の落書きが社殿に残る。

五郎は落書きの下に自らも歌を書き残した。

<はらからの昔をここにしのぶかな おとしのさわの水くきのあと>  「おとしのさわ」は呑香稲荷神社がある地名、「水くきのあと」は筆跡を意味する。兄の筆跡を前にして兄弟で過ごした思い出を詠んだとみられている。柴の肖像写真や会津藩士の師弟が学んだ行動規範「什(じゅう)の掟(おきて)」も掲げられている。

長年の風雪に耐えた社殿は老朽化が進む。高屋さんは将来的に建て替える計画を練る。その先に関連史料を集めた資料館整備構想がある。「足跡を後世に伝える拠点をゆかりの地に設けたい」。思いが募る。 ◆郷土愛 今夏、むつ市が開催した斗南藩関連の展示会の運営に協力した。高屋さんをはじめメンバーの吉田ゆかりさん(43)らは、斗南藩主を務めた松平容大(かたはる)公が市内の徳玄寺に残した中啓(扇子の一種)を、展示会に出品できるよう市と徳玄寺を仲介するなど会津、斗南両藩にまつわる史料収集に当たった。

若い世代による新たな顕彰の動きを斗南会津会の会員らは歓迎する。「先人の足跡を学び、郷土愛を育むことは地域の将来にとって意義深い」。顧問の小町屋(こまちや)侑三さん(78)は戊辰戦争開戦百五十年の節目の年に芽吹き始めた若人の取り組みに意を強くしている。


② 柴五郎(wikiより抜粋)


会津藩士(280石)・柴佐多蔵の五男として生まれた。会津戦争の籠城戦前に祖母・母・兄嫁・姉妹は自刃した。自刃前に親戚に預けられた五郎は親戚の山荘で隠れていたが、兄たちや父親と再会する。戦後は会津藩の武士階級は旧会津藩から移住することが決まり、藩主と同じ陸奥国斗南(青森県むつ市)への移住することを選ぶ。そのため、薩摩の西郷隆盛大久保利通の死を「一片の同情もわかず、両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なり」として喜んだと回顧している。移住先で陸軍幼年学校に入ることに決める。藩校・日新館青森県庁給仕を経て、1873年(明治6年)3月、陸軍幼年学校に入校。1877年(明治10年)5月、陸軍士官学校に進み、1879年(明治12年)12月、陸軍砲兵少尉に任官され、翌年12月に士官学校を卒業する。士官生徒第3期の柴の同期には、上原勇作元帥内山小二郎秋山好古本郷房太郎の各大将がいる。

途中省略

1912年(大正元年)9月、重砲兵第1旅団長となり、翌1913年(大正2年)8月陸軍中将に進級するが、補職は下関要塞司令官であった。数々の武勲を立てた柴が閑職にあったのは陸軍大学校を出なかったからとも、朝敵である会津藩の出だからともいう。しかしその後、師団長を務めてからは大将街道に復帰する。

1914年(大正3年)5月には親補職である第12師団長に栄転し、1917年(大正6年)5月25日に勲一等瑞宝章受章。1918年(大正7年)6月からの東伏見宮依仁親王のイギリス派遣にあたってはこれに随行する。1919年(大正8年)1月にイギリスより帰国するが、実は前年7月に東京衛戍総督に親補されており、帰国後の同年8月には陸軍大将に進級する。同年11月、台湾軍司令官に進み、1921年(大正10年)5月の軍事参議官を経て1922年(大正11年)11月より待命、翌年3月に予備役被仰付となり、1930年(昭和5年)4月に退役。

1945年(昭和20年)、太平洋戦争敗戦後に身辺の整理を始め9月15日に自決を図った。柴は老齢のため果たせなかったが同年12月13日、その怪我がもとで病死する。

享年85。墓所は会津若松市恵倫寺にあり、同市のかつて兵営があったところに柴の生家跡をしめす石碑がある。


③ 下関要塞司令部