宮崎県都城市に寄贈された柳田さんと津曲さんの二幅の書と更に早稲田大学所蔵の書の合計三幅の西郷隆盛の書の署名と、山形県酒田市(旧庄内藩)の本間美術館所蔵の一幅の西郷隆盛の書の署名を比較して欲しい。
本間美術館の一幅の署名は明確に異なっており、前者の三幅の書の方が互いによく似て美しい!
⑴ 柳田さんが都城市に寄贈された西郷隆盛の書の署名
参考
① 西郷の書、修復終え公開 柳田さんが市に寄贈
柳田さん(右)が都城市に寄贈した、西郷隆盛直筆の書の掛け軸
都城市東町の柳田喜美子さん(81)が同市に寄贈した、西郷隆盛直筆の書「南洲書」の掛け軸の公開が、同市の都城島津伝承館で始まった。書は西南戦争での戦功に対し、西郷から柳田さんの祖父・山内哲正(てっしょう)さんへ贈られたもの。今年1月に寄贈後、修復作業が行われていた。同市が西郷の書を所蔵するのは初めて。
③ 早稲田大学が所蔵の西郷隆盛の書
④ 西郷隆盛が書いた漢詩、新発見 宮崎・都城の市民が寄託
市教委によると、書は和紙に書かれ、縦34センチ、横461センチ。巻物になっている。12世紀の中国の儒学者、陳龍川の著書「酌古論(しゃくころん)」をベースにした漢詩で、「大義によって事を行うときは、天に従い、人に望めば英雄として立つことができる」などと書かれているという。同様の内容は「西郷南洲遺訓」にもあるという。
印などから、西郷が政変で敗れて鹿児島に帰った1873(明治6)年か翌74年に書かれたとみられるという。
寄託したのは、都城市早鈴町の津曲靖麿さん(79)。書は自宅の倉庫の中から数年前に見つかり、古文書講座を受講したのをきっかけに今年2月、都城島津邸(早鈴町)に持参した。
津曲家は江戸時代、都城島津家で代々家老を務めた家で、靖麿さんが25代の当主。21代の兼全が、西郷と知り合いだったとされる都城の国学者、木幡栄周(こはたえいしゅう)(1825~80)と交流があり、木幡が西郷から譲り受けたものが津曲家に伝わったのではないか、という。靖麿さんは「市で保管していただき、たくさんの人に見てほしい」と話している。
西郷の書は、8日~来年3月31日、都城島津邸内の都城島津伝承館で開かれる収蔵史料展「都城島津家の歴史」で展示される。原則月曜と年末年始(12月29日~1月3日)が休館。一般210円、大学生・高校生160円、小中学生100円。問い合わせは同邸(0986・23・2116)へ。(神谷裕司)
⑤ 西郷隆盛の実像(参考)
ある作家が西郷隆盛について分析するには、「西郷隆盛は実像以上に虚像が勝っている」、その長いキャリアの割に自分のことを記録に残していない。そうして「虚像が作りやすくなり、実像を圧迫している現状がある」とある。
明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布の特赦により西南戦争での西郷の賊名が除かれることになり、それを機に現在の山形県の旧庄内藩士達が『南洲翁遺訓(西郷南洲遺訓)』という書物を発刊し、全国に配布した。これが「敬天愛人」に象徴される聖人君子としての西郷隆盛の虚像を作り上げてしまった。そして、キヨッソーネが描いた想像上の西郷隆盛の肖像画のイメージを定着させてしまった。
⑥ 西郷南洲遺訓は西郷隆盛の名前を借りた現在の山形県の旧庄内藩士の著作物