高田屋嘉兵衛 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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嘉兵衛は兵庫津で酒、塩、木綿などを仕入れて現在の山形県の酒田に運び、酒田で米を購入して北海道の箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方(現在の大阪)で売るという商売を行った。

① 高田屋嘉兵衛の故郷

高田屋嘉兵衛の墓

洲本市五色町都志 高田屋嘉兵衛の墓

洲本市五色町都志 都志港

兵庫県洲本市五色町都志593 都志港


② 高田屋嘉兵衛の根拠地の函館

函館市宝来町24 24 高田屋屋敷跡

函館市末広町13−22 箱館高田屋嘉兵衛資料館

函館市船見町18 高田屋嘉兵衛一族の墓地


参考

① 江戸期の豪商・高田屋嘉兵衛の足跡、マップで紹介 兵庫・洲本市教委

神戸新聞(2018.10.17、参考)

江戸期に活躍した豪商・高田屋嘉兵衛が生まれ育った兵庫県洲本市五色町都志地区を紹介するまち歩きマップが完成した。今年5月、日本遺産「北前船寄港地・船主集落」に洲本市など27市町が追加認定されたことを記念し、市教育委員会が作成。「都志地区に残る船主集落の面影をたどり、その魅力に触れてほしい」とPRしている。(渡辺裕司)

高田屋嘉兵衛を生んだ都志の町を紹介するマップ=洲本市役所

嘉兵衛は1769年に生まれ、兵庫(神戸市)で船乗りとして頭角を現し、北海道と上方を結ぶ北前船交易で財を成す。函館に支店を置きまちの基礎を作ったほか、北洋航路を開拓。故郷の都志に戻ってからは港の改修などに私財を投じた。

マップでは、嘉兵衛が商売の基礎を学んだ和田屋喜十郎邸跡など、船乗りたちが軒を連ねた都志の町並みを紹介。都志八幡神社には、日ロ対立に巻き込まれロシアに捕らえられた嘉兵衛が無事帰国したのに感謝し、弟らが寄進した随身門が残る。高田屋顕彰館や嘉兵衛の邸宅跡に立つ記念碑なども紹介している。

表紙では、日本遺産に認定されたストーリーや、江戸時代の都志浦、嘉兵衛の足跡について、古文書の絵図や昭和初期の都志港の写真などを交えて解説する。

A3判二つ折り。1万部作成し、市内の公共施設や淡路島観光協会、ウエルネスパーク五色などで配布している。同市教委生涯学習課TEL0799・24・7632


② 高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ、コトバンクより)

[生]明和6(1769).1.1. 淡路
[没]文政10(1827).4.5. 淡路

江戸時代後期の海運業者。寛政4 (1792) 年以来,兵庫に出て廻船業を営み,蝦夷松前に航して巨利を得た。幕府の択捉 (えとろふ) 島探検に応じて,同 11年同島への航路を開き,漁場を開拓。享和1 (1801) 年蝦夷地定雇船頭,文化3 (06) 年蝦夷地産物売捌 (うりさばき) 方を命じられ,箱館を拠点として蝦夷地の商権を独占し巨利を得た。同9年択捉からの帰途,国後 (くなしり) 島沖で V.ゴロウニン幽囚の報復としてロシア軍艦に捕えられてカムチャツカに連行され,翌年帰国,ゴロウニン釈放に努力した。文政5 (22) 年家業を弟金兵衛に譲り,淡路に隠退


③ 高田屋嘉兵衛(参考)


高田屋嘉兵衛は貧農の家に生まれたが、寛政二年(1790)には樽廻船の船子となり、のちには船頭として活躍している。寛政七年(1795)には千五百石積みの「辰悦丸」を建造し、翌八年から船持船頭として上方~箱館間の海運輸送を開始している。かつて「辰悦丸」は酒田で建造されたという話題もあったが、同船建造に関する史料は酒田に残っていない。『菜の花の沖』 では、同船を秋田の土崎湊で建造したことにしている。その費用は船体一千両、船具三百両、その他百両で、合計一千四百両であった。

嘉兵衛は大坂や兵庫で積み込んだ日常生活必需品の塩・砂糖・木綿・酒などを酒田で積み下ろし、酒田からは米穀を買い入れてこれを松前町箱館へ運び、同地で売り捌いた。帰りは箱館・松前から魚・昆布などの海産物や魚肥(干鰯・練)を仕入れ、日本海沿岸の湊で再び販売・買積みを繰り返しながら南下し、下関から瀬戸内海を航行して上方へ物資を運んだ。

さて「北前船」という呼称は、一体何にちなむものであろうか。私は素直に「北を前にする船」「北国を前にする船」「北国松前船」などの解釈でいいと考える。「北」とは北海道・蝦夷地のことであり、北国を指している力すなわち「北前船」の意味は、北国を目指して買積み・販売という商いをともなった海運経営形態船のことである。

寛文十二年(1672)の河村瑞賢によって開発された酒田湊を始発とする「西廻り航路」が安定期に入ったころ、近江商人等による北海道・蝦夷地の漁業権獲得もあって、北国の漁業は活発化の兆しを見せていた。これに加えて商品作物栽培の全国的な奨励や農地の拡大とともに、魚粕肥料の消費増もあずかって、北海道の干鰯や練は増産の一途をたどっていた。

江戸時代中期の宝暦年間(1751~64)ころには、これまでの近江商人等による北海道・蝦夷地の流通独占が崩れ、廻船運漕業者によって、海運経営の一形態である北前船(買積船)時代の到来をもたらすのである。高田屋嘉兵衛が蝦夷地御用定雇船頭として三人扶持・苗字帯刀御免の身分になり、彼の活動がいっそう膨らんできた32歳のころ、酒田の本間光丘は」早和元年(1801)6月1日、満69歳の生涯閉じている。2001年(平成13年)が、「光丘メモリァル2001年」に当たる所以である。