三浦按針の墓 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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三浦按針の墓があることを示す石碑


三浦按針の墓、崎方公演
平戸市大久保町2353 三浦按針の墓
長崎県平戸市大久保町2353 三浦按針の墓


参考

① 新たに墓穴と4体人骨 平戸・三浦按針墓地一帯

長崎新聞(2018.10.12、参考)

長崎県平戸市は11日、徳川家康の外交顧問だった英国人、ウィリアム・アダムス(日本名・三浦按針)の埋葬地とされる墓地がある崎方公園(大久保町)で、新たに五つの墓穴と計4体の人骨などを発見したと発表した。園内で既に見つかっている二つの墓穴と合わせ、市は「(複数の)墓が公園内に、広域にあることが確認できた」としている。

市は昨年6、7月、同公園の一部(約560平方メートル)で発掘調査を実施。公園内にある三浦按針墓地の石碑周辺で二つの墓穴と、計2体分の人骨が見つかった。うち1体は西洋人の男性と推定され、按針の可能性もあるとして専門機関が調べている。

今回の発掘は、公園整備に伴う調査として9月26日に開始。昨年調査した場所から東側に最大約30メートル離れた場所までの間で、五つの墓穴(各直径約120センチ、深さ約80センチ)と、計4体の人骨が見つかった。人骨はいずれも頭蓋骨や大腿(だいたい)骨の部分と推測。調査に当たる土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム(山口県)の松下孝幸館長(68)によると、うち1体は骨が太く、座棺に座らせた状態で埋葬されたとして日本人男性の可能性が高いという。

骨の下からは副葬品と思われる16世紀後半の茶わんや素焼きの皿も見つかった。市は、これまでに発見された計6体の人物の関係性も含め、調査を続けたいとしている。

見つかった墓穴の一つと人骨=平戸市大久保町


② 三浦按針(コトバンクより)

②-1 1600年、オランダ船「リーフデ号」で大分県臼杵市に漂着した。徳川家康から外交顧問として重用されると、神奈川県に領地を与えられ、旗本になった。オランダと英国の貿易船通航許可や平戸への商館設置を仲介した。平戸にも居を構え、平戸英国商館が設置されると商館員として勤務した。英国への帰国はかなわないまま、1620年に死去した。 (2013-09-25 朝日新聞 朝刊 長崎全県 2地方)

②-2 みうら‐あんじん、[1564~1620]、日本へ来た最初の英国人といわれるウィリアムアダムズ(William Adams)の日本名。オランダ船リーフデ号の水先案内人として慶長5年(1600)豊後(ぶんご)に漂着、外交顧問として徳川家康に仕え、相模三浦郡に所領を与えられた。


③ フランシスコ・ザビエルの平戸での2年3か月の布教活動(参考)

長崎県の北西部に位置する平戸の歴史は、イエズス会宣教師、聖フランシスコ・ザビエル(ハビエル、1506 – 1552年)が1550年夏に平戸に上陸したことによって大きな歴史的な転機を迎えた。日本ではあまりにも有名なスペイン人ザビエルは1549年、鹿児島に上陸し、やがて平戸を拠点に、日本国内での布教活動を展開した。ザビエルの日本での布教活動は条件付ながら2年3か月に及んだ。

ザビエルは鹿児島で約100人の日本人をキリスト教に改宗させ、キリストの教えと仏教の考え方に共通するものがあることを見出していたと言われている。しかし、1550年6月に平戸にポルトガル船が寄港したと聞いたザビエルは、同年9月にはコスメ・デ・トーレス神父と宣教師フアン・フェルナンデスとともに平戸に移住した。

ザビエルは平戸でのわずか20日間の布教活動で、鹿児島における1年間の布教活動より多くの信者を獲得した。1551年1月には平戸に日本初の教会が建築されたが、その遺構は現在、復元された「オランダ商館」に近い平戸崎方公園に残されている。

さらに、ザビエルは1550年10月、天皇への謁見を願い出て、日本全土での布教活動の許可を求めるために京都に向かった。そのことは、ザビエルの布教活動がうまくいっていたことを示している。ザビエルは宣教師のフェルナンデス、ベルナルドとともに山口経由で京都に入ったが、戦国時代の混乱と戦禍で京都は荒廃、天皇の権威も失墜しており、失望して山口に戻った。この間、平戸での布教活動はコスメ・デ・トーレス神父に任された。

ザビエルは、山口で“空き寺”を与えられ、数か月間の布教活動を許された。歴史資料によれば、1551年3月から半年間で、500人以上の日本人をキリスト教に改宗させたという。この間、ザビエルは同年4月に3度目となる平戸を訪問しているが、それは日本で最初の教会の建設と関連してのことだった。

以下省略