日本の三大遊廓 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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日本の三大遊廓とは、かつての江戸の吉原、京都の島原、かつての大坂の新町であったとか!

吉原と島原は現在でも其れらしき面影と機能を残しているが、大坂の新町は全く昔の面影を失ったビル街になっている。


⑴ 大坂(現在の大阪市西区)の新町遊廓

1869年に松島遊廓ができたことや、1872年の遊女解放令布告によって外部との交通が自由化したこと、さらには、1890年の大火で廓の多くが焼失したことなどによって、新町は次第に商業地域となっていった。北隣の立売堀の影響もあって金属・機械工具の問屋が多い。1945年の大阪大空襲によって一帯は焼け野原となり、戦災復興の際になにわ筋の敷設および区画の変更が行われたため、廓跡の特徴的な街路や面影は残っていない。しかし、大阪の非営利団体「なにわ堀江1500」が当時の資料を参考に新町遊廓の模型を制作、大阪市立図書館で展示した(wikiより、参考)。

大阪市西区新町2丁目5−5 新町演舞場跡

大阪市西区新町


⑵ 京都の島原遊廓

京都市下京区西新屋敷上之町 島原大門


⑶ 東京の吉原遊廓

台東区日本堤1丁目8−1 吉原大門


参考

① 「日本三大遊郭」一つは吉原。あと二つは?

BESTTIMES(2018.10.6、参考)

文/永井 義男

江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。

■吉原、京都の島原、大坂の新町

吉原は幕府の許可を得た、いわゆる公許の遊廓である。だが、江戸の吉原だけでなく、京都の島原、大坂の新町も公許の遊廓だった。

島原、新町、吉原を三大遊廓ということもある。

写真を拡大 図1『国字茶話文庫』(丹頂庵鶴丸著、天保9年)

図1に「京みすじ町のよしの太夫」とあるが、三筋町は島原遊廓の異称。

つまり、長柄の傘をさしかけられているのは、島原の吉野太夫である。

見物の男たちが、
「さてさて、美しいもの」
「天人の落とし胤か、小野小町の生まれ変わりか」
と、讃嘆している。

京都の遊廓は天正十七年(1589)、豊臣秀吉の晩年、二条柳町にひらかれ、俗に新屋敷と呼ばれたという。諸説あるが、それまで各地に散在していた女郎屋を集め、遊廓として整備したのであろう。

その後、慶長七年(1602)、市街の拡張のため六条の地に移転した。

さらに、寛永十八年(1641)、三代将軍家光のとき、朱雀野に移された。正式な名称は西新屋敷柳町だったが、いつしか、島原と呼ばれるようになった。

遊廓はまわりを土塀と堀で囲まれていたため、寛永十五年(1638)に終結した島原の乱に従軍した男たちが、

「島原の城に似ている」

と評したのが由来だという。

■島原の大門

写真を拡大 図2『人倫訓蒙図彙』(元禄3年)

図2には、島原の大門が描かれている。

この大門が唯一の出入り口だった。

吉原の大門も、この島原に習ったのである。

『けいせい色三味線』(江島其碩著、元禄14年)によると、島原の最高位の遊女である太夫は合わせて十三人。同書では、吉原の太夫はわずか五人である。

■新町のにぎわい

写真を拡大 図3『澪標』(寛政10年)

図3には、新町のにぎわいが描かれている。

天正十一年(1583)に大坂城の築城が始まると、多くの若い労働力が大坂に流入してきた。こうした男たちを目当てに女郎屋が林立した。

各地の女郎屋をできるだけ一カ所に集めるため、豊臣秀吉は天正十三年(1585)、大坂に遊廓を作るのを許可した。

その後、秀吉の死後も遊里は増え続けたが、元和三年(1617)、あたらしい町割りにともない、女郎屋はすべて新町に移された。二代将軍秀忠のときである。

こうして、新町は徳川幕府の公許の遊廓となった。

『けいせい色三味線』によると、新町の太夫は合わせて三十九人である。島原よりも多い。

元禄のころまで、経済も文化も上方の方が江戸よりも優位に立っていた。

遊里についても同様だった。

三大遊廓と称されるが、元禄のころまで、新町・島原の方が吉原よりはるかに繁栄していた。


② 大阪の新しい遊廓、飛田新地


大阪市西成区山王3丁目1−13 飛田会館 飛田新地料理組合


③ 新吉原

東京新聞(2018.10.7、参考)

新吉原を一望する「東都新吉原一覧」=所蔵・都立中央図書館特別文庫室

元和四(一六一八)年に吉原遊廓(ゆうかく)が幕府の許可を得て営業を開始してから今年で四百年。また昭和三十三(一九五八)年に売春防止法が施行され、廓(くるわ)の灯が消えて六十年という節目の年でもあります。

吉原は初め、日本橋葺屋町(現在の堀留二丁目あたり)につくられました。その後、明暦三(一六五七)年に浅草日本堤(現在の千束四丁目)へ移転を命じられ、新吉原として再出発。一般に「吉原」という際は新吉原を指し、それに対して葺屋町時代を元吉原と呼びます。

かつては江戸文化の源泉として栄え、今では日本一のソープランド街とも言われる吉原。近年、メディアでとりあげられる機会が増えたり、若い女性がまち歩きを楽しんだり、色里へのまなざしはずいぶんと変わってきているようです。