幕末江戸の剣術道場めぐり | 日本の歴史と日本人のルーツ

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参考

坂本龍馬や桂小五郎も!幕末志士ゆかりの江戸剣術道場めぐり前編【小栗さくらがゆく!幕末維新のみち:第20回】

ユカリノ(2018.8.26、参考)

小栗さくら

歴史タレント・小栗さくらが、幕末維新ゆかりの場所を旅する連載。第20回は、坂本龍馬ゆかりの千葉定吉桶町道場と江戸三大道場をめぐります。後に「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評された江戸三大道場では、それぞれ歴史に名を残した志士たちが腕を磨いていました。今回は坂本龍馬ゆかりの道場を中心に、江戸の剣術道場めぐりをご案内します。

江戸三大道場と坂本龍馬


幕末当時、江戸には数えきれないほどの撃剣道場があったといいます。その中でも「江戸三大道場」と呼ばれる3つの道場は有名ですね。 

その3つとは、神道無念流(しんどうむねんりゅう)の「練兵館」、鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)の「士学館」、北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の「玄武館」のこと。ですが当時は三大道場という呼び名ではなく、三道場主を「三剣客」といったり「三天狗」と呼んでいたとか。坂本龍馬も三大道場ゆかりの道場に通っていました。 

今回は、江戸三大道場と龍馬ゆかりの道場をご紹介します。

「力の斎藤」練兵館


靖国神社南門

via 提供:小栗さくら

斎藤弥九郎が開設した、神道無念流「練兵館」。もとは神田俎板(まないた)橋にありましたが、焼失により、移転しました。現在碑が建っているのは、靖国神社の南門を入ってすぐの場所です。 

練兵館は、明治に入り元塾頭が「まるで柔道である」と回想したほど荒い稽古だったようです。 

この道場に通っていたのは、桂小五郎や高杉晋作、品川弥二郎など長州藩士が多かったとか。それは斎藤弥九郎の長男・新太郎が、萩の明倫館で師範を務め評価されていたことにより、長州藩が練兵館に藩士を送ったからのようです。


神道無念流 練兵館跡の碑

via 提供:小栗さくら

当時30名ほどの住み込み門弟がいたという練兵館。通いの門弟を合わせれば、連日100名ほどが稽古していたそうです。かなりの大所帯ですね。 

ところが、住み込み30名に対し下駄が15,6足ほどしかなかったため、門弟の大村藩士・渡辺昇は、桜田門外の変の時、仲間と現場に行って下駄を拾ってきた、なんてお話もあります。凄惨な現場で下駄を拾う姿…あまりに事件との温度差が激しいですよね。

「位の桃井」士学館


京橋公園

via 提供:小栗さくら

鏡心明智流「士学館」の4代目道場主、桃井春蔵。この時代に、士学館道場は最も栄えたといいます。2代目のときに京橋・蜊(あさり)河岸(現在の京橋公園付近)に移転し、幕末までこの場所で発展していきました。 

土佐藩の築地中屋敷から200メートルほどという立地もあってか、門弟には、塾頭となった武市半平太(武市瑞山)や、岡田以蔵といった土佐藩士が多かったそうです。土佐藩邸に寄宿していた龍馬もこの周辺を通ったことでしょう。


京橋公園

士学館の碑はなく、蜊河岸の説明板が公園の奥にあります。そこに士学館があったことも触れられていますよ。

via 提供:小栗さくら

桃井と試合をした剣客は、「桃井は技前といい、姿勢といい、比類なし」と評しました。 

道場に寄宿していたのは10人弱でしたが、いずれも屈強の人物だったそうで、士学館四天王といわれる門弟もいました。 

講武所の剣術教授にもなった桃井は、戊辰戦争で幕府軍・遊撃隊頭取並となるものの、大坂での開戦を反対したことで離脱せざるを得なくなります。そして維新後は神職などさまざまな職につき、大坂で没しました。

龍馬も訪れた「技の千葉」玄武館


玄武館跡(右文尚武の碑)

都営新宿線・岩本町駅下車。 
岩本町交番のすぐ近くに碑があります。

via 提供:小栗さくら

北辰一刀流の開祖・千葉周作は、千葉家の北辰夢想流と、一刀流を併せて北辰一刀流を創始しました。 

はじめ日本橋品川町に玄武館の道場を開き、のちに神田お玉ヶ池(現在の岩本町)に道場を移します。周作は、古い因習にとらわれず合理的な剣術を目指し、また武士に限らず町人や商人にも教えたといわれています。


嘉永3年(1850)の切絵図(説明板より)

via 提供:小栗さくら

周作の子である栄次郎は、父を超える剣術の達人だったとか。 

幕末の三舟の一人・山岡鉄舟は、若い頃に仲間と10人ほどで栄次郎に闇討ちをかけ、返り討ちにあって玄武館に入門したなんて逸話もあります。 

3,000人を超える門弟の中には、新選組の前身・浪士組を結成させた清河八郎もいましたし、新選組の藤堂平助や山南敬助も北辰一刀流を学んでいます。 

同じく北辰一刀流の坂本龍馬も玄武館には訪れたようですが、実際に学んでいたのはここではない千葉道場でした。

龍馬が学んだ「小千葉」


日本橋堀留町一丁目付近

via 提供:小栗さくら

玄武館・千葉周作の弟、千葉定吉(さだきち)の道場は、玄武館が「大千葉」というのに対し、「小千葉」といわれていました。坂本龍馬が通っていたのは、通説ではこの千葉定吉道場といわれています(場所や道場については諸説あり)。 

龍馬は、嘉永6年に19歳で千葉定吉道場に入門したといわれますが、この頃千葉道場は桶町にはなく、当時の切絵図には、千葉定吉の名が新材木町(現在の堀留町一丁目周辺)に記されているそうです。


千葉定吉道場跡の説明板より

こちらは桶町千葉道場(現在の八重洲)の説明板にある、当時の切絵図。

via 提供:小栗さくら

その後道場は桶町へ移転されたようです。一度目の修行は新材木町で、二度目は桶町と考えられますが、こちらも諸説あります。 

龍馬の剣術皆伝書は焼失し残っていません。ですが、皆伝書が坂本家に伝わっていたことが分かる史料は2015年に見つかっています。それによると、龍馬は「北辰一刀流兵法皆伝」「北辰一刀流兵法箇条目録」「北辰一刀流長刀(なぎなた)兵法皆伝」を受けていたようです。 

また、修行時代の龍馬の話として有名なのは、千葉定吉の娘である佐那(さな子)との恋のお話。佐那は剣術・馬術・長刀、学術に優れた才女だったとか。その美女ぶりは、宇和島藩の伊達宗城が絶賛するほど!そんな女性を射止めるとは、やはり龍馬には人間的魅力があったのでしょうね。


桶町千葉定吉道場跡

写真後ろの大星八重洲ビルの前に道場跡の説明板が建っています。

via 提供:小栗さくら

今回は江戸三大道場を中心に紹介しましたが、彼らはここで剣の修業をしただけでなく、学を身につけ、仲間たちと国事について語らい、時には意見が衝突することもあったと思います。 

それがのちに時代を動かしたのかもしれない…と想像しながら、道場めぐりをしてみてはいかがでしょうか?