霊渠、秦の始皇帝が作った運河 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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秦の始皇帝は万里の長城や広大な軍用道路の建設の他、運河の開削など巨大なプロジェクトを実施していた。

広西チワン族自治区桂林市興安県の霊渠は軍事物資の運搬用として作られた運河であるが、現在は灌漑施設として利用されている。





広西チワン族自治区桂林市興安県の霊渠

分水(取水池)あたりの拡大

秦皇宮あたりの拡大

広西チワン族自治区桂林市と興安県霊渠

四川省成都市の都江堰(ピンク)と広西チワン族自治区桂林市興安県の霊渠


参考

① 秦の始皇帝が築いた運河、今なお広大な田畑を潤す

【新華社南寧8月23日、参考】カナダのサスカツーン市でこのほど、国際かんがい排水委員会(ICID)の第69回国際執行理事会が開かれ、中国の霊渠(れいきょ)を「世界かんがい施設遺産」リストに登録することを決定した。

「世界かんがい施設遺産」は世界文化遺産、世界自然遺産などと合わせ世界遺産と呼ばれる。ICIDが2014年から世界遺産項目の一つとして認定と登録をしている。

霊渠は紀元前3世紀に建造された世界最古の人工運河の一つとされる。かつては中国の統一と対外交流において重要な役割を果たし、現在でもかんがい施設として機能している。

史料によれば、秦の始皇帝は六国(韓・趙・魏・楚・燕・斉)を統一した後、嶺南地方(現在の広東省、広西チワン族自治区、ベトナム北部一帯)に兵を送り中国統一を完成させようとしたが、嶺南は山が険しく道のりも遠いため、食糧や飼料の輸送に支障をきたし、なかなか攻略することができなかった。秦軍は補給の問題を解決するため、今日の広西チワン族自治区桂林市興安県に霊渠運河を築き、長江水系と珠江水系を一つに結んだ。中原から霊渠経由で絶えず物資が運ばれるようになったことで、始皇帝はついに嶺南を統一した。霊渠は以来2千年以上にわたり嶺南地方と中原地方をつなぐ交通の要衝であり続け、古代シルクロードの重要な中継点とされた。

興安県共産党委員会の黄洪斌書記によると、霊渠は1930年代以降、自動車道路と鉄道の出現により次第に水運機能としての役目を終え、今ではかんがいが主な水利機能となったという。霊渠の総かんがい面積は現在、6万5千ムー(約4300ヘクタール)に及び、興安県の5つの郷鎮と186の自然村の土地を潤し、5万9千人がその恩恵を受けている。


② 霊渠(wiki より)


揚子江の支流・湘江と、広東地方の西江へと流れる漓江を結ぶ運河。紀元前221年に建造開始、紀元前214年に完成。36の水門で水位を調節するという高度な技術が施された灌漑施設である。全長33.1キロメートル、西にある漓江と繋がり海まで到達している。南越征服のために始皇帝が築いた。

元は秦の軍事物資の運搬用として建造された。12世紀ごろから灌漑施設として運用され始め、現在に至るまで運用が続いている。12世紀当初の灌漑農地面積は約600ヘクタール、現代ではポンプ運用用地も含め約2690ヘクタールまで拡大している。


③ 四川省成都市の都江堰も巨大な水利施設