日本最初期の蒸気の軍艦の燃料の石炭はどこで採ったの? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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幕末、薩摩や肥前佐賀などで蒸気の軍艦が作られ、運行されたのはよく知られているが、その燃料についてまで思いが至らなかった。薩摩藩であった鹿児島県に石炭が採れたなんて聞いたことが無い!

ちなみに、長州藩であった山口県には有名所では宇部に炭田があって、製鉄のための良質な無煙炭もあったくらいで心配いらないが!著者の住む下関市の北浦海岸にも海底に石炭があることは、50年前発行の中学校地図には記載されていた。

そう言われるまで、長崎の端島(軍艦島)、福岡の三池、飯塚など、明治になってからの石炭生産では有名であるが、幕末の唐津に炭田があり国内採掘量の三分の一を占めて、薩摩藩などの大藩が採掘していたなんて知らなかった。


参考

① 唐津藩の危機、石炭が救う 明治新政府へ献上、軍艦燃料に 幕府支える譜代の立場転換 [佐賀県]

西日本新聞(2018.6.21、参考)



幕末から明治維新にかけ唐津地方の石炭は国内採掘量の約3分の1を占めていた。唐津藩は、明治新政府に対し軍艦や輸送船として使われた蒸気船の燃料の石炭を供給し、戊辰戦争ではエネルギー面で重要な役割を果たした。「唐津の石炭がなかったら明治維新は遅れていたかもしれない」。こんな見方を示す唐津市明治維新150年事業推進室係長の黒田裕一さん(51)に、維新に不可欠だった石炭を通し激動の時代を読み解いてもらった。

当時の唐津藩は、藩主の小笠原長国(ながくに)の養嗣子、長行(ながみち)が江戸幕府最後の老中を務め、佐幕派と見られがちだ。しかし、実は石炭供給は、新政府の敵とみなされていた藩が攻め滅ぼされないよう長国が講じた起死回生策だった。

新政府軍が旧幕府勢力を破った鳥羽伏見の戦い(1868年)を皮切りに戊辰戦争が始まると、唐津藩は存亡の危機に陥る。新政府側の薩摩藩兵が現在の伊万里市まで迫ってきて駐留し、幕府を支えてきた譜代大名の長国に対し降伏開城を突きつけたのである。さらに京都の新政府中枢部は、第2次長州征討(1866年)で指揮を執り討幕派の長州藩に敗れた長行について、切腹か唐津で謹慎させるよう長国に求めてきた。

長国は、長行との養子関係を断つ苦渋の決断をする。京都に上るため、呼子に寄港していた佐賀藩前藩主の鍋島直正に「新政府に奉仕したい」との思いを伝え、ともに上洛(じょうらく)するのである。「臨機応変に立ち回る才覚がある人だった。幕府側に立つ譜代大名の宿命から脱却し、藩を存続させることを優先させた」と黒田さん。

長国は、京都で新政府に対し、旧幕府軍征討で「先陣を賜りたい」と嘆願するが、とても新政府の信頼は得られない事態が起きていた。長行が江戸を脱出して奥州へと向かい、旧幕府軍とともに新政府軍に抗戦の姿勢を見せたのである。

長国は、新政府に従順さを猛烈にアピールしなければならなかった。そこで思いついたのが唐津に豊富にある石炭の献上だった。「新政府は戊辰戦争を続けるための資金力が不足していた。当時、関東などで戦うためにも、人員、物資を運ぶのに必要な蒸気船の燃料の石炭を非常に欲しており、長国は石炭の献上によって立場の好転を画策した」と黒田さんは指摘する。

新政府から石炭買い取りの要請があると、長国は3千トンの献上を申し出る。新政府側も大きな石炭供給地を領する長国の懐柔を図ることにし、それまでの小笠原家の地位より格上の官職を与えた。長国はその後も新政府に石炭の供出を続け、唐津藩は朝敵となる危機から脱した。

        ◇

唐津炭田は、唐津藩が独占して採掘していたわけではなく、薩摩藩など倒幕派の雄藩も採掘していた意外な事実がある。小笠原氏の前の藩主だった水野忠邦が1817年、幕府要職に就こうとし幕府に43カ村を献上した。幕府領となった厳木や相知の村には「御手山」と呼ばれる産炭地があり、幕府に採炭許可金を納めると、他藩でも唐津で採掘ができるようになったのである。

採炭に乗り出したのは薩摩のほか、佐賀、熊本、久留米藩。いずれの藩も軍艦を保有し石炭が必要だった。「特に、薩摩藩は領内で炭田を探し回ったが、とうとう見つからず、木炭が原料の疑似石炭を作った。しかし、蒸気船を動かせるような品質にはならず、すべてを唐津の石炭に頼るようになった」。黒田さんによると、薩摩藩は1867年、唐津に蒸気船を入港させ588トンもの石炭を積み出した。

その1年前、薩摩藩は長州藩と討幕のための盟約「薩長同盟」を結んでいる。黒田さんは「薩摩藩は幕府を倒す戦いの準備をする算段があって大量の石炭を持ち帰った」と説明する。

唐津湾の高島沖では、石炭を満載した薩摩藩の和船が沈没し7人が亡くなる悲劇も起きた。虹の松原の浜辺には、今も石炭が打ち上げられる。荒波にもまれ寄せては返す黒い塊を見ていると、維新を推し進めた往時のパワーを感じさせる。

=2018/06/21付 西日本新聞朝刊=


② 唐津炭田(からつたんでん、コトバンクより)


佐賀県西部にあった炭田。1973年(昭和48)度から出炭皆無となったが、1960年度の出炭高272.2万トンは全国の5.2%を占めた。佐賀県内の炭鉱は大部分第三系相知(おうち)層群の唐津炭田にあり、一部佐世保(させぼ)層群の伊万里(いまり)湾周辺地域が佐世保炭田に属していた。

唐津炭田はさらに北波多(きたはた)、相知、厳木(きゅうらぎ)、多久(たく)など現JR唐津線沿いの地域と、北方(きたがた)、大町(おおまち)、江北(こうほく)など現JR佐世保線沿いの杵島(きしま)地方とに大別され、後者は杵島炭田とも称した。

唐津湾に注ぐ松浦川筋において文政(ぶんせい)年間(1818~1830)ごろから本格的に採掘され、幕末、明治初期には日本最大の産炭地となり、海軍予備炭田に編入。明治中期には日本の採炭中心は筑豊(ちくほう)に移行したが、明治後期から大正時代にかけ三菱(みつびし)、貝島など大手資本が唐津炭田に進出した。

相知、芳谷(よしたに)の大炭鉱を手中に収めた三菱は、1912年(大正1)には県下総出炭量の50%台を占めた。

唐津線で運ばれた石炭を積み出す唐津港はにぎわった。昭和初期には地元資本高取(たかとり)鉱業(杵島炭礦会社)の杵島炭鉱が県下最大炭鉱にのし上がった。

その後、エネルギー革命の前に、原料炭に乏しい当炭田の炭鉱は相次いで閉山した。1960年当時、県下全域で47を数えた炭鉱も、1972年には新明治西杵(にしき)鉱、新明治佐賀鉱の閉山を最後にすべて姿を消した。

なお、唐津市歴史民俗資料館、多久市郷土資料館で、唐津炭田の資料展示が行われている。[川崎 茂]

『井手以誠著『佐賀県石炭史』(1972・金華堂)』[参照項目] | 相知 | 唐津線 | 杵島炭鉱 | 炭田 | 松浦川 | 三菱財閥