斉興公とお由良の方が隠居して、そのあと久光公も住んでいた旧島津氏玉里邸の庭園の下御庭に入っで散策した。右手に小さな岩を積み重ねた巨石が庭池の縁にポツッと鎮座している。
この巨石の上面には、柱穴が残されていることから、何らかの祠が祀られていたと考えて聖なるラインの存在を調べると、かなり古い時代のものと思われる聖なるラインが5本も見つかった。
この場所は1835年に島津斉興が別邸として構えた大名庭園であったが、以前は宇治瀬神社付近から妙谷寺門前に至る田圃であり、この巨石は以前から存在した祠の台座の類いとして組み立てられたと考えられる。この巨石は磯の海中にあったものを53個に分割し、運び込み、ふたたびつぎ固められたと言い伝えられており、比較的小さい岩をセメントらしき材料で接着したものであった。
江戸時代のこの頃の西洋では現在のセメント当たるものが作られ始め、当時の最先端のハイテク技術であり、この頃はセメント様の接着剤を使って積み上げた巨石でも庭園の鑑賞に差し障ることはなかったようだ。
鶴の池、右手に巨石が転がっている。
参考
① 旧島津氏玉里邸庭園の概要(参考)
庭園番号2の巨石について
縦横およそ3.5m、高さおよそ3mのこの巨石は磯の海中にあったものを53個に分割し、運び込み、ふたたびつぎ固められたと言い伝えられている。上面には、柱穴が残されていることから、何らかの祠が祀られていたとも考えられている。
② 玉里邸と庭園ができる前(参考)
天保4年(1833)、斉興は宇治瀬神社付近から妙谷寺門前に至る田圃を邸域として、ここに武五本松の別邸を移転することを決め、11 月に着工させ、天保6年(1835)に完成しました。天保8年5月に参勤交代から帰国した斉興は、翌月に玉里邸に入り、側室の於遊羅の方とともに9月までここに滞在していたといわれています。
③ 現代の普通のコンクリートの歴史(wikiより)
コンクリートの製法は約13世紀の間失われていたが、1756年、イギリスの技術者ジョン・スミートンが水硬性石灰(骨材は小石やレンガの破片)を使用したコンクリートを考案した。1824年、ジョセフ・アスプディンがポルトランドセメントを発明し、1840年代初めには実用化している。以上が通説だが、1670年ごろ建設されたミディ運河でコンクリートが使われていることが判明している。
④ 聖なるライン