JR西日本・宝塚線脱線事故現場の今 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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2018年4月25日現在、JR西日本・宝塚線(福知山線)の脱線事故から13年経った。死者107名、負傷者562を出す歴史的な大惨事であった。現在、電車が衝突した9階建てマンションは、最高4階まで階段状に残して屋根をかける工事を進めている。2018年夏に完成する。

追悼慰霊式は2019年に行う。

JR宝塚線脱線事故跡(3D、北から南へ見下ろす)、グーグルアースでは被害マンションは改修前の姿

JR宝塚線脱線事故跡(2D)、グーグルマップでは被害マンションは改修途中

兵庫県尼崎市久々知3丁目27


参考

① 脱線事故13年、犠牲者悼む 通過電車も追悼の警笛

朝日新聞(2018.4.25、参考)

乗客と運転士計107人が死亡、562人が負傷したJR宝塚線(福知山線)脱線事故から13年となった25日、兵庫県尼崎市の事故現場には早朝から多くの人が慰霊に訪れた。事故が起きた午前9時18分に合わせ、快速電車が追悼の警笛を鳴らして通過した。

現場近くのホールでは、JR西日本主催の追悼慰霊式があり、開式時点で遺族や負傷者ら859人が参列。黙禱(もくとう)の後、来島達夫社長は「皆様の尊い命、満ち足りた日々を、私どもは突然に奪ってしまった。ただただおわびを申し上げるしかない」と謝罪した。昨年12月に新幹線のぞみ34号の台車に破断寸前の亀裂が見つかった問題にも触れ、「安全に対する信頼を大きく揺るがすもので、取り組みに何が足りなかったかを深く反省し、鉄道の安全を不断に追求していく」と改めて誓った。

電車が衝突した9階建てマンションは、JR西日本が最高4階まで階段状に残して屋根をかける工事を進めている。現場全体を「祈りの杜(もり)」とし、慰霊碑や犠牲者名の碑、教訓を伝える資料室などを設ける。今夏にも完成させ、来年から追悼慰霊式を開く予定だ。

2両目に乗り重傷を負った小椋聡さん(48)=兵庫県多可町=はこの日、大きく姿を変えた事故現場を見て、「自分にとって人の生き死にが間近に感じられる場だったが、きれいに整備された。事故を実感するのが難しい」と語った。

同じ2両目に乗り、腰の骨が折れた大阪府豊中市の会社員、増田勇人さん(32)は「暗いところ、狭いところ、金属の焦げた臭いが今でも嫌。当時を思い出してしまう」。職場までは車で通勤しているという。同じ車両で亡くなった人たちのことを思い、献花台に花を手向けた。

事故発生とほぼ同時刻に現場を通過する電車。電車が衝突したマンション跡はアーチ状の屋根に覆われている=2018年4月25日午前9時17分、兵庫県尼崎市、小川智撮影


② 事故概要(wikiより)

2005年(平成17年)4月25日午前9時18分ごろ、兵庫県尼崎市久々知にある福知山線塚口駅 - 尼崎駅間の右カーブ区間(曲率半径300m。塚口駅の南約1km、尼崎駅の手前約1.4km地点)で塚口駅 - 尼崎駅間の右カーブ区間(曲率半径300m。塚口駅の南約1km、尼崎駅の手前約1.4km地点)で宝塚発JR東西線・片町線(学研都市線)経由同志社前行き上り快速(列車番号5418M、7両編成)の前5両が脱線した。

うち前4両は線路から完全に逸脱。先頭の2両は線路脇の分譲マンション「エフュージョン尼崎(2002年竣工)」に激突。先頭車は1階ピロティ部の駐車場へ突入。2両目はマンション外壁へ横から激突しさらに脱線逸脱してきた3 - 4両目と挟まれて圧壊。外壁にへばりつく様な状態で、1 - 2両目は原形をとどめない程に大破した。また、3 - 4両目は反対側の下り線路を支障していた。

近隣住民および下り列車に対しての二次的被害は免れたものの、直接的な事故の犠牲者は死者107名(当該列車の運転士含む)、負傷者562を出す歴史的な大惨事となった。

現場写真(参考)、北から南へ見下ろす


③ 脱線事故現場(日経、参考)