戦争中、北九州工業地帯は米軍の空襲対象となったが、不幸なことではあるが八幡製鉄所を除いて市街地が焼け野原になった。
戦後の復興は、焼け残った八幡製鉄所(現在の新日本製鉄所)のおかげである。ここでは焼け残った九州百貨店(後の丸物)あたりから、八幡東区を眺める。
昭和29年以降の丸物
かつての八幡市の航空写真(東から西に見下ろす)、中央左の交差点右上に九州百貨店(後の丸物)ビルが見える。
参考
① 九州百貨店
1932年(昭和7年) - 「九州百貨店」が開店
1946年(昭和20年) - 戦災で焼失
1954年(昭和29年) - 「九州百貨店」を傘下に入れて「八幡丸物」として開業
1964年(昭和39年) - 西中央公団住宅内に移転
1971年(昭和46年) - 閉店
アジア太平洋戦争の末期 八幡大空襲
昭和20年(1945年)8月8日(水曜日)昼間(AM10時頃から12時まで)の大空襲
B29重爆撃機他、サイパン、沖縄基地より約170機が飛来。この日の爆撃は焼夷弾[しょういだん]が中心で旧八幡市の中央町から桃園にかけて、雨・あられの如く投下された。
瞬く間に火災が起こり、総て焼き尽くしてしまった。焼夷弾を投下直前に、高空からキラキラする金属片(錫テープ?)を撒いて高射砲のレーダーをかく乱したり、密集した木造家屋が燃えやすいように油のようなものも撒いたとの記録もある。
死傷者約2500人。製鉄所の構内でも一部被害が及び労働者の犠牲が出た。中でも平野社宅は全滅に等しかった。罹災者数5万2562人、罹災戸数1万4000戸。
③ 北九州のその他の百貨店(参考)
小倉の玉屋、井筒屋など