切貫水門、朝倉市堀川用水山田井堰 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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朝倉市の山田井堰で筑後川の水を分流させて堀川用水に導き、この用水の流域に有名な三連水車がある。

この山田井堰あたりは、7世紀の白村江の戦いの時の斉明天皇・中大兄皇子ゆかりの恵蘇八幡宮・木の丸殿趾の直ぐ南隣であった。

丁度、このあたりに強固な岩盤があり、江戸時代、堀川用水を作る時に手作業でくり貫いた切貫水門がある。

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山田井堰と切貫水門(ピンク印)、筑後川は右下

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山田井堰、右手が筑後川下流、手前が切貫水門入口

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切貫水門入口(参考)

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切貫水門出口(参考)

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赤丸: 山田井堰と切貫水門、黄丸: 三連水車

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堀川用水(参考)

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菱野の三連水車


参考

① 江戸期の掘削跡 改修工事で出現 朝倉市の国史跡、堀川用水の切貫水門 気が遠くなる手作業に感嘆 [福岡県]

西日本新聞(2018.2.9、参考)

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切貫水門を支える石。下の石の左端などに、のみの跡が残る

朝倉市の三連水車を含む国史跡「堀川用水および朝倉揚水車」のうち、改修工事で取水口である「切貫(きりぬき)水門」の水が抜かれ、岩盤をくりぬいて水門を設けた江戸時代当時の姿があらわになっている。

一帯を管理する山田堰土地改良区の徳永哲也理事長(70)は「内部を詳細に見たのは私も初めて。昔の人の苦労がしのばれる」と感慨深げだ。

切貫水門は、筑後川の水を引く農業用の堀川用水からの取水を増やすために設けられた。1722年に最初の掘削が終わり、さらに流量を増やすために59年には高さと幅が2倍に拡幅された。

水門は現在も使われており、農林水産省が23年ぶりに改修に着手。露出している内部は、高さと幅が各約3メートル、長さ約20メートル。トンネル状の壁はでこぼこしており、江戸時代の人々がのみなどで固い岩盤をこつこつとくりぬいた様子がうかがえる。徳永理事長は「固い岩なので、気が遠くなるような大工事だったはず」と推測する。

工事は5月末まで。見学には農水省の許可が必要。

=2018/02/09付 西日本新聞朝刊=


② 山田堰(やまだぜき)

江戸時代前期寛文3年(1633)筑後川から水を引き150haの新田が開発されました。その後更に開田をすすめ水量を確保するため取入口を変更し、岩盤をくり抜いた切貫水門となっています。

寛政2年(1790)に至り、筑後川いっぱいを堰き止める石堰を築造し水量の増加をはかりました。

表面積7688坪(25,370㎡)の石堰も、明治7年、明治18年、昭和55年の洪水で崩壊するなど幾多の試練にあいながら、今もなお昔の面影をとどめて670haの美田を潤しています。


③ 斉明天皇ゆかりの恵蘇八幡宮(参考)

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恵蘇八幡宮

昔、郡中33ヵ所(上座郡)の総社として栄え、現在は朝倉町の総社となっている。応神天皇、斉明天皇、天智天皇を祭神として祀り、毎年10月15日に御神幸が行われている。

由諸によると、斉明天皇は661年、百済国救援のため筑紫の朝倉橘広庭宮(朝倉町大字須川)に下られた。この時随行の中大兄皇子(後の天智天皇)は国家安泰と戦勝祈願のため、宇佐神宮(大分県)に奉幣使を遣わされた。使の一行が恵蘇山麓に達した時、天上から白幡が降り、幡に八幡大神の文字が浮かび出たことから、天孫八幡なる宮社が創建された。その後、天武天皇白凰元年(673)に斉明天皇・天智天皇を合祀し、この頃社名を恵蘇八幡宮に定めたといわれている。

現在の本殿は安永元年秋9月(1772)の改築である。


木の丸御殿跡

皇太子中大兄皇子は、御母斉明天皇がお亡くなりになって7日後の8月1日、御遺骸を朝倉橘広庭宮からこの地にお移しになり、その夕御陵山に仮に葬られた。そして、陵下の山腹に丸木の殿を作られ、1日を1ヵ月にかえて12日間、母君の喪に服されたといわれ、この地を「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ぶようになった。

≪恵蘇八幡宮・木の丸公園説明より≫